二宮: 親方の出身地は旧野村町。年に1度、乙亥大相撲が開催され、もともと相撲が盛んな町ですね。
楯山: そうですね。僕も小学生の時から出場していました。当時はそんなに強くなかったのですが、体が大きかった。相撲好きの父や先生に勧められてやらされていました。
 本当は警察官になりたかった

二宮: ということは、あまり自身は乗り気ではなかったと?
楯山: 相手とぶつかるのは怖いし、痛い。稽古も厳しい。裸になってまわしを締めるのも非常にイヤでした。小学校の頃は陸上も水泳もやっていたので、できれば相撲はやりたくなかった。だけど、逃げようと思っても逃げさせてもらえませんでした(笑)。

二宮: そして惣川中、野村高と進学先では相撲部に入ることになりました。
楯山: もう相撲部に入らざるを得ない状況でしたね(苦笑)。高校時代は県大会では優勝していましたが、全国大会ではベスト32程度の成績でした。四国の中では高知の明徳義塾が強かった。

二宮: 大相撲でやってみたいという気持ちは?
楯山: 全くなかったです。高校を卒業したら自分の体を生かして、警察官になろうと考えていました。テレビドラマでやっていた『太陽にほえろ』に憧れたんです。すると、中央大学からスカウトがあった。周囲からは「警察になるなら、せっかくだから大学行ってからでも遅くない」と説得されました。“あぁ、余計なこと言わなきゃ良かったな”と思いましたね(笑)。

二宮: 兄弟で相撲をやっていたのは?
楯山: 6人兄弟の一番下ですが、相撲をやっていたのは僕だけ。父親は村相撲の経験があったようで、子どもが相撲部に入ってうれしかったでしょうね。僕は、いかに相撲をやめて道を切り開くかを考えていましたけど。

二宮: それでも大学時代は全国学生選手権の団体で中大の34年ぶり優勝に貢献しました。
楯山: いいメンバーに恵まれましたね。1つ後輩には若孜(松ケ根部屋、06年名古屋場所限りで引退)、2つ後輩の出島(武蔵川部屋)がいました。

二宮: 当時の大学相撲は強豪ぞろいでした。
楯山: 同志社大の土佐ノ海(伊勢ノ海部屋)、専修大の武双山(武蔵川部屋、現藤島親方)は本当に強かったですね。何よりパワーがすごかった。全く格が違う印象を受けました。ただ、彼らのようないい同級生とめぐり合えたことが、後の土俵人生で大きかったと感じています。

二宮: 大学に入ると大相撲へ、という目標が見えてきたのでは? それともまだ?
楯山: 大学4年までは本気で警察に入ることを考えていました。ところが、ひとつ上の先輩、武哲山(武蔵川部屋、98年名古屋場所限りで引退)が大相撲に進んだことで、「あの人がやれるんだったら、オレも」と色気が出てきた。それに小学校から10何年も続けてきた相撲をここでやめていいのか、という思いも沸いてきました。「村おこしだと思って頑張れ」という地元の声にも後押しされ、最後はプロ入りを決断しました。

 土俵上で憂さ晴らし

二宮: 数ある部屋の中で、片男波部屋を選んた理由は?
楯山: 地元の乙亥大相撲に親方(元関脇・玉ノ富士)が現役時代からすっと来ていただいていたこともあり、その縁で入門を決めました。

二宮: 大相撲には、アマチュアの高校や大学と違った厳しさがあると思いますが、とまどいはありませんでしたか?
楯山: 一番はアマチュアと大相撲では上下関係が違いましたね。アマチュアだと、4年生が1番、3年生が2番と学年で縦の序列ができている。ところが、大相撲は番付と入門の順番なんです。

二宮: つまり中学から入ろうが、大学から入ろうが、最初は一緒だと?
楯山: そうです。私は22歳で入門しましたから、16、17歳の年下でも先輩になる。その感覚がアマチュア時代と全く違いました。慣れるまでは大変でしたよ。

二宮: 番付が上にくると、上下関係はどうなるのですか?
楯山: 一応、関取になれば上になるのですが、それでも先輩の名前を呼ぶ時はずっと「△△さん」で通します。入門時の序列は消えないんです。

二宮: 先輩からの“かわいがり”は?
楯山: 多くの力士は中学卒業で入っているので、「大卒がなんだよ」っていう雰囲気を感じましたね。しかも、僕は幕下付出のデビューだったので、余計に風当たりは強かった。そういうことに負けないためには、自分の実力を土俵上で発揮するしかない。親方にも「土俵では先輩も後輩も年齢も関係ない」と言われましたし、かえってハングリー精神がわいてきました。当時は稽古場の土俵で、先輩たちに日ごろの憂さ晴らしをしていましたよ(笑)。

(第3回につづく)
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<楯山良二(たてやま・りょうじ)プロフィール>
1972年1月7日、愛媛県東宇和郡野村町(現・西予市)生まれ。本名:松本良二。現役時代の四股名は玉春日。野村高、中央大を経て、片男波部屋に入門。94年初場所、幕下付出で初土俵を踏む。翌年、十両に昇進し、96年初場所新入幕。得意の突き、押しを武器にその場所で10勝をあげ、敢闘賞に輝いた。翌年、夏場所には横綱・貴乃花(現・親方)から初金星。名古屋場所では自己最高位となる関脇に昇進した。その後はヒザ、首などのケガもあり、十両落ちも経験するが、06年名古屋場所では11勝4敗の好成績で技能賞を受賞。55場所ぶりの三賞は最長ブランク記録だった。同年と07年はいずれも6場所中4場所で勝ち越し。35歳を超える年齢を感じさせない相撲で土俵を沸かせた。08年秋場所をもって引退。年寄・楯山を襲名し、後進の指導にあたる。通算成績は603勝636敗39休。十両優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞2回、技能賞2回、金星7個。




(構成:石田洋之)
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