久しぶりに「共催」(Co-hosting)という言葉を聞いた。前回はサッカーのW杯だったが、今回は五輪だ。
 周知のように2020年夏季五輪開催に向け、被爆都市の広島・長崎両市が立候補する方向で検討に入った。核兵器廃絶への決意をアピールしてノーベル平和賞を受賞したオバマ米大統領の行動力に触発されたのだろうか。「スポーツを政治利用するな」という声も一部にあるが、逆にいえば政治の絡まなかった五輪が、これまでどれだけあっただろうか。
 さて「共催」を実現するにあたって最大の壁は一都市での開催を定めている五輪憲章だ。これまでもサッカーやセーリングなど一部の競技を別の都市で行なったことはあったが、複数の都市による共同開催の例はない。こうした事実を受けて「(共催は)非現実的だ」との声もある。
 果たして、そうか。都市開催が原則の五輪に対し、サッカーW杯は国家開催が原則という違いはあるがFIFAにも「共催」のルールは存在しなかった。ところがルールは一瞬にして破られ、02年のサッカーW杯は日本と韓国の「共催」になってしまった。

 背景にあったのはFIFA内の政争だ。より具体的に言えば日本の後見人だったアベランジェ会長と韓国が頼みにしていたヨハンソン欧州連盟会長(いずれも当時)の権力闘争の産物として「共催」が極東の両国に押し付けられたのである。
 FIFAは民主主義を担保する最低限の装置である投票箱まで奪い去り、あまつさえ、それを糊塗するために「日韓の友好」などと美辞麗句を並べ立てた。「今回の決定は日韓の敗北であると同時にアジアの敗北でもある」。これが真相を知るIOCの金雲龍筆頭副会長(当時)の言葉だ。

 スポーツの国際政治を見ていていつも思うのは日本人の“ルール音痴”ぶりである。ルールをつくったり、変えたりするのは、いつも欧米人。日本人は彼らがつくったり、変えたりしたルールに唯々諾々と従うだけ。たまには日本人がルールセッティングの主役になってもいいのではないか。そもそも五輪憲章は不磨の大典なのか。五輪でも複数都市による「共催」が可能になれば世界中の小・中規模都市、ローカル都市が夢を持つだろう。広島・長崎両市はそうした、いわば五輪拡張運動の先頭に立つ決意を固めるべきだ。

<この原稿は09年10月21日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
◎バックナンバーはこちらから