「テコンドー」と「陸上」。それが高校時代、木村志穂の生活の基盤だった。彼女はテコンドーでは世界一を、そして陸上では高校日本一を目指し、学校と道場に通う毎日を送った。タイプの全く異なる競技だが、「メンタル面で大きく左右されるという部分はテコンドーも陸上も同じ」と木村は言う。陸上のトレーニングで身についた瞬発力がテコンドーに生かされたとも感じている。だが、やはり二足のワラジをはくのは想像以上に困難を極めた。
 中学卒業後、地元の松山北高校に進学した木村は、所属した陸上部で早速頭角をあらわす。1年秋に臨んだ国民体育大会(神奈川)、少年女子B100メートル障害に出場した彼女は予選を突破し、見事8位入賞を決めた。
「陸上生活6年間で一番嬉しかったですね。でも、まぁ私にとってはラッキーなレースだったんです。同じ組で走った子がこけちゃったみたいで、タイムでぎりぎり拾われたんです。でも、まさか自分が決勝に残るとは思ってもみませんでした」
 しかし、決勝のレースでは最下位。何より中学3年生に負けたことが悔しくてたまらなかった。

「練習して速くなりたい」
 国体後、木村はより一層練習に励んだ。タイムも冬場の厳しいトレーニングを経て順調に伸びていった。「よし、来年こそは」と思っていた矢先、アクシデントが起こった。2月、校内マラソンを走った後のことだった。いつものように放課後、練習をしていると、いきなりピキッという音とともに足の裏に激しい痛みが生じた。直後は、歩くことさえもままならないほどだった。いくつかの病院で診てもらったものの、原因は判明されないまま、時間だけが流れていった。

 シーズンが始まっても、足の痛みは一向にひかなかった。
「多分、オーバーワークが原因だと思うんです。普通に動くことはできたんですけど、走ると痛くて痛くて……国体が終わって、これからという時だったので、『私が何をしたの?』と思っちゃいましたね」
 部活に行っても筋力トレーニングくらいで走ることができない。木村は放課後、まっすぐテコンドー道場に行くようになっていった。

 しかも、ちょうどその年、木村は自身初めての世界テコンドー選手権に出場することになっていた。
「実は木村が中学の時から逆算して、高校2年の世界選手権に照準を合わせていたんです」と語るのは木村の恩師・松友省三師範だ。
「私としても初めて教え子を世界に送り出すことになり、非常にテンションが上がりました(笑)」

 だが、木村は陸上部にとっても期待の選手。テコンドーに専念させることは簡単なことではなかった。そこで、松友師範は意を決して高校を直接訪れ、陸上部の顧問に直談判した。
「わかりました」。松友師範の思いが伝わり、なんとか理解を示してもらった。師範がそこまでして木村を練習に専念させようとした背景には自らの体験があった。

「現役時代、アジア選手権に出場したことがあるんです。四国では私だけでしたからね、寂しかったですよ。ただ試合自体は自分なりの戦いができたので、今ではいい思い出になっています。でも、試合さえもままならなかったら、後悔の念が残っているでしょうね。
 木村もまた松山から一人、東京の大集団に入らなければならなかった。負けて、試合会場でポツンとヒザを抱えて泣いている姿を思い浮かべてしまいましてね。だから、せめてやれることはやらせていきたいと思ったんです。もうまるで娘を送り出す気分でしたよ(笑)」

 こうして木村は世界選手権までの数カ月間、陸上部を休部。東京近郊の選手が一堂に会し、代表合宿を行なっている間、一人松山で松友師範と練習した。そして出発直前になって、木村も代表団に合流。緊張しながら開催地アルゼンチンへと飛び立った。木村にとっては記念すべき初の海外だった。

 食べ物の好き嫌いは少なくないという木村だが、アルゼンチンの食べ物は口に合った。「私、ここで住めるかも」と思ったほど、初の海外生活にもリラックスしていた。試合の前日もぐっすり眠れた。しかし、当日の朝、目が覚めるとやはり緊張感が襲ってきた。と同時に、足に痛みが走った。実は木村はこの時、肉離れを起こしていたのだ。

「東京に合流して最後の強化練習の日にやっちゃったんです。疲労もあったと思いますけど、それ以上に極度の緊張感の中、『頑張らなくちゃ』という思いが空回りしちゃったんでしょうね。もう、瞬間的に『これは、やばい……』と思いましたよ。最初は階段も上れないくらい痛かったんです。出発ぎりぎりまでマッサージや整体に行ったりしたんですけど……」

 不安を抱えながら挑んだ世界の舞台。木村は足の痛みをこらえながら出場した。しかし、そこで世界の洗礼を受けることになる。
「よく試合中は痛いことも忘れた、なんて言うじゃないですか。全然、そんなことなかった。もう、痛くて痛くて……。一度、蹴りを出したら、『あ、ダメだ。痛くて足が出ない』って。結局そのまま何をしたのかわからないまま終わってしまいました」
 世界大会の独特な雰囲気にも、木村は完全にのみこまれていた。「私はいったい何をしてきたんだろう……」。ほろ苦い世界デビュー戦となった。

 しかし、木村は自分と世界との差がそれほど大きくは感じられなかった。
「もちろん自分よりも身体能力が高いと思う選手はたくさんいましたよ。でも、背丈はほとんど変わらなかった。その時の自分自身に手応えは感じませんでしたけど、他の試合を見ていても、『あ、絶対に勝つなんて無理』とは全く思わなかった。もっと練習して、経験を積めば……と」
 テコンドーへの思いを強くし、木村は一路日本に帰国した。

 しかし、帰国後の木村は道場には足を運ばなかった。それまで休部させてもらっていた陸上部の新人戦がすぐ控えていたこともあり、自然とテコンドーから離れていった。3年生になると、ますます道場からは足が遠くなり、陸上に力が注がれた。


木村志穂(きむら・しほ)プロフィール>
1983年1月6日、愛媛県松山市生まれ。小学5年からテコンドーを始める。中学、高校時代は陸上部に所属。100メートルハードルで1年時に国体入賞。3年時には四国を制し、インターハイに出場した。愛媛大学ではテコンドー部に所属し、4年時には主将も務めた。卒業後は上京し、スポーツジムのインストラクターの仕事をしながら府中道場に通い、トレーニングを続けている。2005年世界選手権大会女子型2段の部で3位。2度にわたるヒザの手術を乗り越え、今年10月の世界選手権大会、女子型三段の部で準優勝に輝いた。女性では初となる副師範の試験にパスし、現在は週に一度、府中道場で女性を対象に指導している。


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(斎藤寿子)
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