2000年8月2日、全国高校総体第2日、陸上女子100メートル障害予選。9組スタートの木村志穂はもてる限りの力を出し、走りきった。しかし6位で予選落ち。彼女は陸上界から身を引くことを決意した。
「陸上は頑張った結果、日本一になることができなかった。自分の限界を感じたんです。テコンドーならもっと大きな舞台に行けるチャンスがあるのかなと」
 やるからには頂点を極めたい。木村は自分の能力を開花させる場所は、陸上ではなく、やはりテコンドーだと感じていた。しかし、約1年半のブランクは決して小さくはなかった。2年ぶりに出場した全日本選手権。それまでは必ず決勝に進出していた木村が、まさかの初戦敗退。それも完敗だった。
「世界選手権にまで行くような選手が国内で初戦敗退ですからね。相当、落ち込んでいましたよ。しばらく道場に顔を出しませんでしたから。やっぱりどこかで『大丈夫だろう』という気の緩みがあったんだと思います。みんなの前で負けてしまって、恥ずかしさもあったでしょうね。まぁ、プライドは傷つけられたでしょうから、正直立ち直れないだろうと半ば諦めていました」
 そのまま木村がテコンドーから離れることを、恩師の松友省三師範は覚悟していた。

 それから約2カ月後、松友師範の元に1本の電話が鳴った。木村からだった。
「『会って話がしたい』と言うので、道場で話を聞いたんです。そしたら、もう一度チャレンジしたいので練習を見てほしい、と。もちろん、ダメだとは言いませんでしたよ。しかし、一気に戻すのは無理だと思いました。時間をかけて計画的にやっていこうと話をしたんです」。
 彼女が国内トップの力を取り戻したのは、それから約1年半後のことだった。

 木村は高校卒業後、地元の愛媛大学に進学した。その理由の一つにはテコンドー部の存在があった。全員で10人未満だったが、木村の学年は一気に9人入った。そのうち女子はただ一人。まさに紅一点の状態だった。しかし、大学からテコンドーを始める学生が多く、男子の中においても木村のレベルは一人突出していた。

 当時、部長を務めていた田中彰は新入部員の彼女が部にもたらした影響は多大だったと感じている。
「僕が木村に初めて会ったのは、僕が大学1年、木村が高校1年の時でした。念願かなって大学からテコンドーを始めた僕が、彼女が通っていた道場に入ったんです。その前から『松山に強い子がいる』とは聞いていましたから、『あ、この子か』と。かわいらしい女の子が一人、男の子に混ざって同じメニューをこなしているんです(笑)。
 もちろん、大学でも同じ。自ら『男子と同じように扱ってほしい』と願い出てきたくらいです。女子の木村がそれだけやっているんですから、男子はもう甘えられなかったですよ」
 実力はもちろん、人一倍努力する木村を田中は尊敬の眼差しで見ていたという。

 2年になり、田中たちが卒業していくと、一人黒帯の木村は事実上のキャプテンとなった。木村は必死になって練習に取り組み、他の部員たちの指導もした。しかし、そんな彼女と意見が合わない子も中にはいたようだ。
「私は男子と体力差を感じたくなかったので、とにかく一生懸命やりました。でも、ある子に言われたんです。『こんなきついこと、志穂ちゃんだからできるんだよ』って。その子は大学からテコンドーを始めた子だったんですけど、おそらく『みんながみんな全日本で優勝したいと思ってるなんて思わないで』って言いたかったんだと思います」

 女子が一人、キャプテンとして部を引っ張っていくことの難しさは予想以上だった。特に前キャプテンの田中の影が色濃く残っていたことも、木村にとっては大きな壁になっていたようだ。時には東京に就職した田中に電話で相談をしたこともある。
「木村には木村のいいところがあるし、木村にしかない持ち味がある。僕のマネをしようなんて思わなくていい。実力もあるんだから、自信をもってやればいいんじゃないかな」
 田中はそう言って、電話越しに木村の背中を押した。

 田中のアドバイスもあり、試行錯誤しながら自分のやり方を見つけていった木村は、テコンドーにどっぷりと浸かった大学生活を送った。週3回、自主練習を含めれば3〜4時間ほど大学で練習し、そのほか週2〜3回は松友師範の元に通った。

 そして、あの初戦敗退という屈辱を味わった日から2年、木村は全日本選手権組手部門で初優勝を果たした。苦労の末にようやくつかんだ初タイトル。彼女は日本チャンピオンとして再び世界に挑んだ。しかし、2度目の世界選手権(ギリシャ)はまたも初戦敗退を喫してしまう。
「国内大会だと、ある程度相手のデータがあるので、事前にどういう選手かというのは頭にあるんです。でも、世界大会となるとそうはいきません。全く知らない相手とやらなければいけない。それに外国人っていうだけで迫力を感じてしまう。その時も実力も知らないのに、勝手にビビってしまいました。『今、いけそうだけど、そうしたらこうくるんじゃないか』って不安が先走ってしまって、思いっきりいくことができませんでした」

 心技体、どれをとっても木村と世界との差は明らかだった。しかし、こうした経験が両者の差を徐々に縮めていった。そして2年後、いよいよ「木村志穂」の名が世界に広がっていく――。
(最終回へつづく)

木村志穂(きむら・しほ)プロフィール>
1983年1月6日、愛媛県松山市生まれ。小学5年からテコンドーを始める。中学、高校時代は陸上部に所属。100メートルハードルで1年時に国体入賞。3年時には四国を制し、インターハイに出場した。愛媛大学ではテコンドー部に所属し、4年時には主将も務めた。卒業後は上京し、スポーツジムのインストラクターの仕事をしながら府中道場に通い、トレーニングを続けている。2005年世界選手権大会女子型2段の部で3位。2度にわたるヒザの手術を乗り越え、今年10月の世界選手権大会、女子型三段の部で準優勝に輝いた。女性では初となる副師範の試験にパスし、現在は週に一度、府中道場で女性を対象に指導している。


>>第1回はこちら
>>第2回はこちら



(斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから