2009年夏、プロ入り4年目の高木啓充はヤクルト2軍の本拠地、戸田で投げていた。プロに入って3年間、1軍で何度か登板機会はあったが、白星はなし。1軍は巨人、中日と優勝争いを展開しており、実績のない投手に昇格のチャンスが訪れる雰囲気は全くなかった。
「このままクビになるのかな」
 正直、オフに非情の通告を受けることも覚悟していた。その後の就活もリアルに考えざるを得なかった。
「せめてもう1回、1軍に上がりたい。投げて結果が出なければ諦めがつく」
 そんな右腕のささやかな願いは、ひょんなことから現実のものとなる。8月に入ると、チームは主力にケガ人が相次ぎ、思うように勝てない日々が続いた。代役として2軍から上がった選手も結果を残せない。2軍でコンスタントに投げていた高木に昇格の機会が巡ってきたのだ。

 最初の4試合は中継ぎで、いずれもビハインドの展開での登板。そこでまずまずの結果を残した高木は緊迫した場面を託される。9月4日の巨人戦(東京ドーム)、3−3の同点で迎えた10回、1点でも失えばサヨナラ負けとなる状況でマウンドに上がった。

 しかし、ヒットと四球で走者をため、2死満塁。ドーム内は勝利を期待するジャイアンツファンの熱気もあって息苦しかった。こんなに緊張したのは久々だった。「心臓はバクバクでした。(キャッチャーの)相川(亮二)さんのリードを信じて投げました」。迎えた鈴木尚広をピッチャーゴロに打ち取った。「あれは奇跡でしたね」。絶体絶命のピンチをしのぎ、これまで1軍で鳴かず飛ばずだった男の何かが変わった。

 誕生日にプロ初勝利

 それから6日後の広島戦(神宮)。ついに高木は先発の機会を与えられる。「意外と落ち着いていました。もう、これでダメならダメと開き直って投げました」。ルーキーイヤー以来の先発ながら、変化球をうまく使い、カープ打線から凡打の山を築いた。気つけば、7回無失点。リリーフが打たれ、初勝利こそ逃したものの、役割は十二分に果たした。

 そして16日の横浜戦(横浜)。再び先発のマウンドがやってきた。チームは高木が1軍に上がって以降も不振が続き、ここまで9連敗中。確実とみられていたクライマックスシリーズ出場も阪神に抜かれ、4位に転落。すぐ後ろには5位の広島が迫っていた。絶対に負けられない一戦だった。いきなり立ち上がりに2点を取られるも、崖っぷちの右腕にはもうこれ以上失うものはない。走者を毎回のように背負いながら要所を締め、2回以降はスコアボードにゼロを重ねる。すると中盤以降、打線が奮起。ヤクルトが逆転に成功した。高木は6回途中まで90球を投げて、6安打2失点。6−2でチームは長い連敗を止めた。4年目の投手にとっては待ちに待ったプロ初勝利だった。

「ホッとしました。もう勝つことなく、野球を終えると思っていましたから」
 試合後、アーロン・ガイエルには偽物のウイニングボールをスタンドに投げ込まれ、ジェイミー・デントナにはシェイビング・クリームがたっぷり乗ったタオルで“パイ投げ”の祝福を受けた。奇しくもこの日は26歳の誕生日。二重にうれしい1日となった。

 この1勝を境に高木は勝ち星を積み重ねる。続く22日の広島戦(マツダスタジアム)ではカーブを主体にカープ打線を手玉にとり、9回を投げてわずか4安打に封じた。これがプロ入り初完投かつ初完封勝利だった。さらに28日の阪神戦(神宮)では7回途中まで投げて1失点。自身3勝目をマークした。クライマックスシリーズを争う両チームとの直接対決を制し、ヤクルトは徐々に息を吹き返した。

 そして10月9日、阪神との最終決戦を制し、チームは初のクライマックスシリーズ進出を決めた。過去3年間、ひとつも勝てなかった高木は、わずか1カ月足らずで4勝(0敗)をあげた。防御率は44イニングを投げて1.64。「相川さんや川本(良平)さんがいいリードをしてくれた。そのおかげでなんとか勝てたという感じです」。本人はそう謙遜するが、周囲は“燕の救世主”“高木様”ともてはやした。数カ月前までは戦力外も覚悟していた男が、苦境に陥ったチームの貴重な戦力になったのである。

 まさかのインフル感染

 だが、“救世主”は思わぬ形で2009年のシーズンを終える。2位・中日とのクライマックスシリーズ。高木は第3戦の先発を告げられていた。
「2、3日前からですかね、風邪っぽいなと思ったのは。大丈夫だろうって感じだったんですが……」
 ヤクルトが第1戦に勝利し、第2ステージ進出に王手をかけた夜、体調はさらに悪化した。ホテルの部屋でベッドにもぐりこんでも寒気がする。一晩、寝ても気分はすぐれない。朝、体温を測ると39.8℃もあった。すぐさま病院で診察を受けた。

 診断の結果は「インフルエンザ陽性」。当然、登板は回避となり、ホテルの部屋に隔離された。ニュースを見聞きした友人や同級生からは励ましの電話やメールがたくさん来た。
「でも“いいオチだね”とか“ここまできて、そりゃないだろう”と笑われちゃいましたね。僕はまったく笑えない状況でしたけど」
 高木も含め、5選手がインフルエンザに感染したヤクルトは第2戦、第3戦を落とし、シリーズ敗退が決まった。その結果を戦いのベンチではなく、ホテルの一室で知った高木はやり場のない思いでいっぱいだった。
「インフルエンザじゃなくて、ただの風邪で耐えられるなら投げたかったです」

 数日後、熱が下がった高木は先に帰京したチームとは別行動で東京に戻った。
「まだまだ、そこまでの選手ではなかったということですよね。一人暮らしでも体調管理はきちんとしているつもりだったのですが、どこか甘かったのかもしれない。今度こそ、あの舞台で投げたいです」
 投げたくても投げられなかったクライマックスシリーズ。あの日から高木の2010シーズンはスタートしている。

(第2回につづく)

高木啓充(たかぎ・ひろみつ)プロフィール>
1983年9月16日、愛媛県松山市出身。中学時代は砲丸投で四国大会3位の成績を持つ。宇和島東高では投手兼内野手として、阿部健太(現阪神)擁する松山商、越智大祐(現巨人)擁する新田などと甲子園行きを争う。全国大会出場はならなかったが、打撃でも高校通算30本塁打をマーク。大阪体育大に進学後、3年時(04年)に大学の先輩、上原浩治(現オリオールズ)以来のリーグ戦ノーヒットノーランを達成。4年時(05年)には33イニング連続無失点などを記録して“上原2世”として注目を集める。同年の大学・社会人ドラフトでヤクルトが4巡目で指名。1年目の開幕当初に1軍デビューを果たしながら、結果を残せず、プロ入り3年間は未勝利。4年目となった09年は8月に1軍昇格すると、9月16日の横浜戦に先発して初勝利。続く22日の広島戦で初完封勝利をおさめる。結局、12試合に登板して4勝(0敗)、防御率1.64の好成績を残し、チームのクライマックスシリーズ出場に貢献した。右投右打。身長181cm、85キロ。




(石田洋之)
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