高木が野球を始めたのは小学校3年生の時だ。「友達がやっていて、楽しそうだから1回行ってみようかなって感じでした」。実際にやってみると、ボールを遠くへ飛ばす楽しさに惹かれた。もともと体が大きかったため、ボーイズリーグでは投手も任された。これが高木の原点である。
 砲丸投げで四国3位

 だが、中学校に入るとボーイズリーグを辞め、学校の野球部にも属さなかった。野球は続けていたが、個人的に週1回程度教わる程度。松山北中では陸上部に所属した。「でも走るのがイヤだったので、走らなくてもいい競技はないかなと思っていたんです」。ある時、遊び半分で砲丸を投げると、思いのほか飛距離が出た。「オマエ、これなら大会に出れるぞ」。先生の勧めもあり、砲丸投げに取り組むことになった。中3時(1998年)には13メートル33で愛媛県総体で3位入賞。さらに四国総体では自己ベストとなる13メートル92をマークして、ここでも3位になった。「確か当時の全国大会出場の標準記録が14メートル50だったんです。もうちょっと、ちゃんと練習していたらクリアしていたかもしれないですね」。4キロの鉄球をより遠くに飛ばす作業は純粋に楽しかった。

 とはいえこの間も高木の中で野球への思いが消えることはなかった。トレーニングは継続し、高校では野球部に入ることを決めていた。問題はどの高校を選ぶか。愛媛県は言わずとしれた野球王国である。高木の住む松山市内にも春夏あわせて7回の甲子園優勝を誇る松山商を筆頭に、春準優勝1回の新田など強豪校がひしめいていた。「でも周りの友達と同じところに行くのはイヤだなと……」。中学校はチームに所属していなかったこともあって、できれば松山を離れた場所で野球をしたかった。しかも当時、愛媛の高校野球は春が今治西、夏は宇和島東が連続出場をしていた。特に宇和島東の上甲正典監督(現済美高監督)は平井正史(現中日)、橋本将(現横浜)、宮出隆自(現東北楽天)、岩村明憲(現パイレーツ)を育てた名指導者でもある。「目標は高く持て」。中学時代、個人的に野球をレッスンしてくれた指導者の助言もあり、高木は宇和島東への進学を決意する。

 しかし、実際に入学するとその厳しさは想像を絶するものだった。練習は放課後、夜遅くまで行われ、休みはほとんどない。校内でも廊下や階段で先輩の姿をみかければ、真っ先に大声で挨拶をしなくてはならない。中学時代は週1回程度の練習で、先輩、後輩の関係とも無縁だった15歳にとって、この環境に慣れるだけでも大変だった。「とんでもないところに来たと後悔しました。3年間持つかなと思いましたね」

 ただ、間違いなくセンスはあった。「いい体格、いい馬力を持っていましたよ。それは岩村と比べると、瞬発力や体力面では追いついていなかったですけど」。上甲監督は高木を1年生の秋から投手兼野手として試合に起用し始める。ピッチングのみならず、バッティングでも中軸を任せると実際によく打った。チームの主力となるにつれ、当然、指揮官の要求も高くなる。「とにかくめちゃくちゃ投げ込みをさせられたし、バットもめちゃくちゃ振らされましたね」。当時の猛練習を思い出したのか、この話になると思わず高木は顔をゆがめた。

 高校時代の持ち球はストレートとカーブの2種類のみ。近年の高校野球では多彩な変化球を操る投手も多いが、監督は新たな球種を教えることはしなかった。「上でも通用する土台をつくりたかった。そのためにはまず、まっすぐを磨くこと。そしてカーブをきっちりコントロールして投げること。力がつけばスライダーや他の変化球はラクに覚えられるから」

 むしろ高木の課題はコントロールにあった。中学時代の実戦経験がなかった影響か、バントの構えで揺さぶられるとすぐに制球を乱した。カウントが悪くなると投げ急ぎ、さらにストライクが入らなくなった。そこで相手打者にバントの構えをさせ、ストライクが入るよう徹底的に練習したこともあったという。「本人も上を目指したいという意欲が感じられた。だから時には投手からわざと外して、奮起を促したこともありましたね」。ベテラン指導者の巧みな選手操縦法もあり、右腕は徐々にエースとしての力をつけていった。

 直接対決は2勝0敗

 高木が最上級生となった頃、愛媛の高校野球は群雄割拠の情勢だった。宇和島東の4連覇を阻み、夏の甲子園に初出場した丹原、速球派の越智大祐を擁する新田、2年生ながら阿部健太が主戦投手を務める松山商……。高木はエースとして、さらには4番打者として、これらの強敵を倒さなくてはならなかった。

 中でも越智のいる新田はいつも宇和島東の前に立ちふさがった。翌春のセンバツ出場の参考となる2年秋(00年)の県大会では準決勝で対戦した。ここを勝ち抜けば四国大会への出場権を獲得し、甲子園行きへ道が拓ける。しかし先発の高木は相手打線につかまり、4回までに5失点。チームは劣勢に立たされた。だが、味方も越智の制球難につけこみ、直後に一挙7点を奪って大逆転。その後も激しい点の取り合いとなった乱打戦は宇和島東が9−9の同点から最終回にサヨナラ勝ちした。15安打を浴びながら高木は完投し、越智との投手対決を制した。

 2人が再び投げ合ったのは3年夏(01年)の県大会だ。舞台はまたも準決勝。冬場を経て、さらに成長した両右腕は緊迫した投手戦を展開する。「当時からボールは速かったですね。角度もあるし、ボールも重い。バッターとしては打ちにくかったです」。4番打者としての仕事はできなかったものの、秋とは違い、高木も先に点を与えない。すると5回、チームメイトがタイムリーを放ち、1点を先制する。その後も小刻みに得点を重ねた宇和島東は3−1で接戦を制した。高木vs.越智――両者の直接対決はいずれも高木に軍配が上がった。

 ところが、さらなるライバルが宇和島東の行く手を阻む。甲子園への切符をかけた決勝戦。相手は松山商だった。前日の好投から一転、この日の高木は不調だった。初回にいきなり連続3塁打を浴びるなど4失点。「ピッチングでダメならバッティングで頑張ろう」と、その裏、左中間にフェンス直撃のタイムリー2塁打を放って2点を取り返すが、3回以降は松山商先発の阿部に3人ずつで攻撃を封じられる。一方の高木は失点を重ね、3回途中でKO。宇和島東は終盤に猛攻を見せて追い上げたが一歩及ばず、6−7で敗れた。「もったいなかったですね。自分がしっかり抑えていれば、分からなかった」。結局、“目標を高く持って”宇和島東を選んだ高校時代は選手として全国の舞台に立つことはかなわなかった。

「高木は潜水艦みたい」

「結果的には高木の後を継いだ徳田(智)が相手を4回以降ゼロに抑えた。代えるタイミングを間違えたかもしれんね。ただ、2死からの失点もあって、なかなか代えにくかった。あとは初回の高木の2塁打。あれはスタンドまでもうちょっとだった。もし、あれが3ランで1点差にしておけば、また違った試合になったかな」
 上甲監督は夏の日の出来事を、つい昨日のことのように振り返った。「悔いが残る試合やったね」。自身にとっても、これが宇和島東で指揮をとったラストゲームになった。

 あれから9年の月日が流れた。松山商の阿部は翌年(02年)のドラフト会議で指名を受け、近鉄入り。その後、オリックスを経て阪神に移籍した。越智は早稲田大で通算15勝をマークし、06年に巨人に入団した。同じく大学を経てヤクルトに入った高木も含め、高校時代にしのぎを削った3人は、セ・リーグの各球団に分かれ、投げ続けている。中でも越智は山口鉄也と“風神雷神”のコンビでセットアッパーとして活躍。昨季も巨人のリーグ3連覇、日本一に貢献した。年俸でも成績でも大きく水をあけられ、ライバル心がふつふつと沸いてくるのではないか。
「ないと言ったらウソになりますけど、それが現実ですから。特別な意識はないですね。周囲から“越智はスゴイな”と比較されることもありますけど、実際にスゴイですよ。現状は自分のことで精一杯です」

 そう語る教え子を上甲監督は「潜水艦みたい」と評する。「潜望鏡を上げたり降ろしたりはするけど、なかなか浮上してこんね。高校時代から素材ではひけはとらないと思ってみているんやけど……」。15歳の頃からセンスを買っていただけに、その比喩には歯がゆさが込められていた。

 ただ、宇和島東での日々が高木にとってプロ野球選手としての基礎をつくったことは間違いない。「あの3年間のおかげでプロで少々、苦しいことがあっても耐えられる。あれがあったから大学でもうまくいったと思っています」。倒れそうになるくらいの猛練習も、あと一歩で甲子園を逃した悔しさも、過ぎてみればひとつもムダにはなっていない。

(第3回につづく)
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高木啓充(たかぎ・ひろみつ)プロフィール>
1983年9月16日、愛媛県松山市出身。中学時代は砲丸投で四国大会3位の成績を持つ。宇和島東高では投手兼内野手として、阿部健太(現阪神)擁する松山商、越智大祐(現巨人)擁する新田などと甲子園行きを争う。全国大会出場はならなかったが、打撃でも高校通算30本塁打をマーク。大阪体育大に進学後、3年時(04年)に大学の先輩、上原浩治(現オリオールズ)以来のリーグ戦ノーヒットノーランを達成。4年時(05年)には33イニング連続無失点などを記録して“上原2世”として注目を集める。同年の大学・社会人ドラフトでヤクルトが4巡目で指名。1年目の開幕当初に1軍デビューを果たしながら、結果を残せず、プロ入り3年間は未勝利。4年目となった09年は8月に1軍昇格すると、9月16日の横浜戦に先発して初勝利。続く22日の広島戦で初完封勝利をおさめる。結局、12試合に登板して4勝(0敗)、防御率1.64の好成績を残し、チームのクライマックスシリーズ出場に貢献した。右投右打。身長181cm、85キロ。




(石田洋之)
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