転機は21歳になる秋に突然やってきた。大阪体育大学に進学し、3年生となっていた高木は阪神大学リーグのマウンドに上がっていた。試合は敗色濃厚。「今日は負けやなぁ」。キャッチャーとそんな会話を交わしていた。「後は適当に投げたらええやん。フォークでも投げてみるか」。当時、高木の主な持ち球はストレート、カーブにスライダー。フォークボールは投げたことがなかった。人差し指と中指にボールを挟み、腕を思い切り振ってみた。ボールは途中までストレートと同じ軌道で進み、打者の手許でストンと落ちた。「意外に落ちるやん」。この遊び半分で投げた変化球が右腕の運命を大きく変えることになる。
 宇和島東高校ではエースで4番だった高木だが、プロからの誘いはなかった。大学の強豪からはいくつか話をもらった。ただ、それは投手としての能力よりも通算30本塁打をマークした打力を買ったものだった。18歳は丁重に申し出を断った。「本人もピッチャーをやりたがっていたし、僕も上に行くなら野手じゃ厳しいと思っとったね」。当時の監督・上甲正典はそう明かす。「確かにバッティングのセンスはあったけど、守るところがなかったんよ。高校時代はサードとファーストも守らせたけど、守備はそこそこ。プロに認めてもらうレベルには届かんかったやろうね」

 高木が強豪校への進学を拒んだ理由はもうひとつある。「高校3年間でもう厳しい練習をするのはうんざりしていました。あれだけやっても甲子園にもプロにも行けなかった。だったら同じことをしても、しょうがないんじゃないかと。自分で考えながらやったほうが自分のためになると考えたんです」
 だが、自ら志望した大学の推薦入試は不合格。一般入試でなんとか入学できたのが大体大だった。
「“希望は投手なんですが、いいですか?”と言っていたので、“どうぞどうぞ”と。ウチはそんな強豪やないから、やりたいポジションでええよ”って話したんですよ」
 大体大の指揮を執る中野和彦監督は当時をそう振り返る。

 「何もしゃべらない、目立たない子」

 大体大といえば真っ先に名前が挙がる投手は上原浩治(現オリオールズ)である。彼の活躍により、大体大はその出身校として一躍、有名になったが、野球部の環境は他の強豪校と比べると雲泥の差があった。専用のグラウンドはなく、全体練習ができるのは昼休みの1時間と、付属高校(大体大浪商)の野球部が活動を開始する夕方までの時間だけ。春夏合わせて4回の全国優勝を誇る古豪“浪商”にグラウンドを間借りしている状態だった。

「何もしゃべらないし、目立たない子でしたよ。力はあるけど、そんなにずば抜けていいわけやない。正直ピッチャーよりもバッターにしたほうがええんやないかと思いましたね」
 それが指揮官の印象だった。高木も猛練習に次ぐ猛練習に耐えた高校時代とは一転、のびのびと野球をやっていた。基本的なトレーニングは継続していたため、徐々に球速は伸び、ストレートのキレも良くなっていたものの、それ以上でもそれ以下のピッチャーでもなかった。
「コーチも学生しかいませんから、自由にやっていましたね。3年までは何もない人間でしたよ」
 阪神大学リーグは「関関同立」の名門校を抱える関西学生リーグと比較すれば知名度も注目度も低い。観客もまばらでメディアやNPBのスカウトが来ることもあまりない。大阪の都会の中で、このまま高木の名前は忘れられてしまいそうだった。

 とはいえ、3年生になればどんな大学生でも進路は気になるものだ。上級生になった高木に中野はこう言った。
「このリーグで目立たんとプロはおろか社会人にも行けんぞ!」
 それは何より本人が最も気にしていたことだった。体育大だけに教員免許を取得して先生になる道もあったが、あまり興味はわかなかった。両親には「プロにも社会人にも行けんかったら、野球を辞める」と告げた。もちろん未来がはっきりと見えていたわけではない。「このままやったらプー太郎になる」。不安は大学生活の残り時間が少なくなるにつれ、大きくなっていった。

 中野監督によると、高木の練習態度が変化し始めたのはこの頃からだという。
「こっちが“止めろ”というまで、投げ込みをするようになりましたね。ブルペンで昼から投げ始めて、ずっと投げていた。1日で300球くらいは投げていたんじゃないかな。結果を残さないと、という気持ちが練習に出ていましたよ。相変わらず走るのは嫌いやったけど(苦笑)」
 目の色が変わった右腕に、指揮官は上原の話題をよく持ち出した。「上原なら残って練習していたぞ」「上原に聞いたけど、“プロで大事なのはスピードではない”んやて。“コーナーの出し入れができるかどうか”や。きっちりコースに決まったら130キロ台のボールでも抑えられる」……。既に巨人で日本を代表するエースとなっていた偉大な先輩はレベルアップを狙う大学生にとっては格好のお手本だった。

 先輩・上原以来のノーヒットノーラン

 そして迎えた3年秋のシーズン、高木は一躍、大学球界にその名を知られる存在になる。2004年10月28日、相手は大阪産業大だった。覚えて間もないフォークを効果的に使い、打者から次々と空振りを奪う。課題のコントロールもこの日は良く、相手打線から快音が全く聞かれない。
(写真:大学時代に試したフォークの握り)

「マネジャーや他の選手にヒットを1本も打たれていないことは“黙っとけよ”と言っていました。“今日はいい”と言うと力むタイプやから」
 しかし、高木は監督の心配を吹き飛ばすような快投を続けた。そのまま最終回まで110球を投げ、奪三振11、内野ゴロ11、内野ライナー1、内野フライ1、外野フライ3、四死球は2つ、打たれたヒットはゼロ――。ノーヒットノーランの達成だった。リーグでは先輩・上原以来の史上4人目の快挙。「誰も現地に記者がいなくて、試合後に何本も電話取材を受けましたよ。“様子はみていないんですけど、どうだったんですか”って(笑)」。メディアはこぞって“上原2世”と取り上げるようになった。

 目立たなかった学生生活は一変した。大学4年生となる翌年は年始からプロのスカウトが挨拶に訪れた。日向での春キャンプにもスカウトが視察に来た。公式戦が始まると複数の球団の担当者がネット裏に陣取った。中にはメジャーリーグの関係者もいた。高木はフォークにさらに磨きをかけ、好投を続ける。同じフォークでも空振りを奪いたい時は深く握って落差を大きくし、凡打や見逃しでストライクを狙う時は浅く握るなどバリエーションをつけた。4年春には33イニング連続無失点を記録。大学3年間で重ねた白星が13個だったのに対し、4年時は1年で12勝をあげた。
「ノーヒットノーランで“上原2世”と注目されたことが本人の励みになったのでしょう。コントロールも雑なところが多かったけど、あのおかげで“制球力がある”という評価に変わった。もし、あの試合がノーヒットノーランじゃなければプロには行けなかったかもしれない。持って生まれた星の強さを感じましたよ」
 プロはおろか社会人すら難しいとみられていた3年の春から、わずか1年半の急成長だった。

「でも最後のギリギリまで(指名されるかどうか)わからなかったですよ。こちらに選ぶ権利はないですからね。獲ってくれるならどこでも良かった」
 高木が緊張しながら朗報を待った大学生・社会人ドラフト当日、4巡目で自分の名前が呼ばれた。指名したのはヤクルトだった。当時のヤクルトには岩村明憲、宮出隆自と宇和島東高の先輩が2人もいた。「だいぶ(年齢は)離れていましたが、同じ学校、しかも同じ監督の下でやられた方がいたことは安心しました」。入団には何の支障もない。仮契約を結んだ後には「将来は上原さんを超える投手になりたい」と大きな目標を掲げた。 

「3年になって自覚を持って練習したことで投手としてのレベルが一段上がった。そこへ、たまたまフォークを覚えた。これで投球の幅が広がった。伸びのあるストレートと、縦のカーブ、そしてフォーク。この時期に今のピッチングの原型ができたんやないでしょうか」
 中野監督は、4年間の進化をこう分析する。確かにフォークを覚えたのは偶然だった。しかし、それだけで劇的に野球人生は変わるものではないだろう。ウイニングショットを生かすだけの下地がなければ、いくら幸運が舞い降りても、それを実力に変えることはできない。その意味では高木にとってフォークとの出会いもまた必然だったのかもしれない。

(最終回につづく)
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高木啓充(たかぎ・ひろみつ)プロフィール>
1983年9月16日、愛媛県松山市出身。中学時代は砲丸投で四国大会3位の成績を持つ。宇和島東高では投手兼内野手として、阿部健太(現阪神)擁する松山商、越智大祐(現巨人)擁する新田などと甲子園行きを争う。全国大会出場はならなかったが、打撃でも高校通算30本塁打をマーク。大阪体育大に進学後、3年時(04年)に大学の先輩、上原浩治(現オリオールズ)以来のリーグ戦ノーヒットノーランを達成。4年時(05年)には33イニング連続無失点などを記録して“上原2世”として注目を集める。同年の大学・社会人ドラフトでヤクルトが4巡目で指名。1年目の開幕当初に1軍デビューを果たしながら、結果を残せず、プロ入り3年間は未勝利。4年目となった09年は8月に1軍昇格すると、9月16日の横浜戦に先発して初勝利。続く22日の広島戦で初完封勝利をおさめる。結局、12試合に登板して4勝(0敗)、防御率1.64の好成績を残し、チームのクライマックスシリーズ出場に貢献した。右投右打。身長181cm、85キロ。




(石田洋之)
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