「こんな状態で、本気でJ2狙っているのかな……」
 Jリーガーになることを目標にJFLの愛媛FCにやってきた赤井を待ち受けていたのは、予想以上に厳しい現実だった。練習場は土のグラウンド。タックルや転倒で生傷は常に絶えなかった。しかも専用の練習場ではなかったため、時間帯によっては空いたグラウンドを求めて移動する“ジプシー”生活を余儀なくされた。さらにはチームスタッフも少なく、練習や試合前後の道具運びや雑用も全員が協力して行わなくてはいけなかった。
「しかも僕は新入りでしたからね。大学の時はそういうことは下級生がやっていましたから。ある意味、大学時代より大変でしたよ」
 そして何より困ったのが練習量の少なさだ。当時の愛媛はJリーグ加入を目指してはいたが、クラブの財政基盤は弱く、プロ契約選手を多く抱えられる状況ではなかった。メンバーのほとんどは、日中は地元企業で働いており、必然的に練習時間は限られる。どんなに頑張っても全体練習できるのは週2〜3回が限界だった。しかも夜の練習が中心となるため、日中に行われるJFLの試合では、どうしてもスタミナ不足を露呈する。夏場の試合で勝ちきれないことも、J昇格へのひとつのハードルとなっていた。

 サッカー教室から学んだこと

 当然、新加入の赤井に提示された条件もプロ契約ではなかった。かといって夢を実現させるには働きながらサッカーをするほどの余裕もない。赤井は親に頼み込んで、経済的支援を受けながらボールを蹴り続けた。
「時間あるなら、サッカー教室を手伝ってくれない?」
 暇を持て余し気味だった大卒選手に声をかけたのは、クラブのエースストライカーだった友近聡朗(現参議院議員)だ。

 ドイツでのサッカー留学を経て故郷に帰ってきた友近は、異国の地でみた地域に根付いたスポーツクラブを愛媛にもつくりたいと夢みていた。「このチームを応援していれば、一生幸せに生きていける!」。そんなJクラブを愛媛につくりたいと思っていた。そのためには、まず「愛媛FC」という存在を県民に広く知ってもらわなくてはならない。ひとつの手段として始めたのが、子どもたちへのサッカー教室だった。

「でもプロじゃないのに子どもを教えるって、何か最初は中途半端な感じがしましたよ」
 当初、赤井はサッカー教室に参加することに決して乗り気ではなかった。だが、友近は半ば強引に若手を巻きこんだ。
「では、赤井選手にお手本を見せてもらいます!」
 グラウンドに集まった少年たちを前に、突然、友近から“先生役”に指名された。
「えっ?」
 とまどいながら、リフティングやシュートをみせると歓声があがる。子どもたちは大喜びだ。教室が終了する頃には、すっかり「赤井選手!」と名前を覚えられた。

 それが友近のひとつの狙いでもあった。子どもたちが名前を覚えれば、実際にその選手のプレーを観に行こうとスタジアムに足を運んでくれるはずだ。家族で応援に来てもらえれば、日常の中でクラブのことも話題になるだろう。もちろん観客が増え、声をかけてくれる人たちが増えれば選手にとって励みになる。
「こうやって教えるのも悪いもんじゃないですね」
 ある教室の帰り道、赤井がつぶやいた一言を友近は今でも忘れていない。
「本当にサッカー教室はよくアシスタントで行きましたね。子どもたちと接していくうちに、いかに愛媛の中で受け入れてもらうことが大切か学べたように思います。教室のバイト代は、交通費を引いたら、昼飯代くらいしか残らなかったですけど(苦笑)」

 脱水症状で途中交代

 こうして徐々に県内の認知度を高めていた愛媛FCだったが、赤井にとって最初のシーズンとなった2004年には結局、J昇格を果たせなかった。クラブの成績は14勝9敗7分の5位。Jリーグ加入の第1条件だったJFL2位以上を満たせなかったからだ。翌シーズンへ契約の更新はしたものの立場はアマチュアのまま。このまま親のすねをかじりながら、サッカーを続けるにも限度があった。
「自分自身、ラスト1年と思っていました。次は絶対に上がろうと。クラブ全体もそういう雰囲気でしたね」
 
 迎えた勝負の2005年、クラブは新監督を迎える。ジュビロ磐田でユースの指導に携わってきた望月一仁(現磐田育成統括)だ。望月は「Jへ行っても通用するチームづくり」を掲げ、変革に乗り出した。まず選手に徹底したのは「オールコートプレス」。攻守の切り替えを速くし、運動量をあげて主導権を握る時間帯を増やそうと試みた。

「望月さんに代わってから走る量がメチャクチャ増えました。最初はとまどいましたよ」
 札幌生まれ、札幌育ちの赤井にとって、最大の課題はフィジカル面にあった。
「せっかくいいプレーをしていても、気温が上がるとバテてしまって一気に運動量が落ちる。ひ弱なタイプだったんで、プロになったとしても大変だろうなと思いました。正直、2、3年後にはいなくなる選手だろうと……」

 そう明かす元指揮官が「今なら笑い話になりますが」と振り返るエピソードがある。リーグ戦も中盤に突入した6月、首位のホンダFCをホームに迎えた大事な試合での出来事だ。主力の故障などで4位と停滞していた愛媛にとって、ここはどうしても落とせない一戦だった。愛媛は幸先よく1点を先行したものの、スタメンで右サイドに起用した赤井の動きがどうもおかしい。キックオフは最も気温が高くなる14時。その日は6月中旬ながらピッチ上の気温は30度を超えていた。

「ハーフタイムに戻ってきたシュウ(赤井の愛称)を見たら、完全に脱水症状を起こして倒れてしまいました。すぐに代えましたけど、想定外の出来事でゲームプランが少し狂いましたね(苦笑)」
 愛媛は後半に1点を追加し、2−0とリードを広げたものの、相手の反撃に合い、残り15分を切ったところで1点を返される。そしてロスタイム、セットプレーをきっかけに追いつかれてしまった。痛すぎるドローだった。

 昇格決定試合での貴重な“ゴール”

「でも、シュウはおとなしいけどマジメでした。ある程度のレベルになると自分流を押し通す人間が多い中、彼はこちらが指示したことを素直に受け入れて継続してくれる。学習能力が高かったですね。スタメンだろうがベンチスタートだろうが、調子が良かろうが悪かろうが、それなりの計算が立つ。夏場を過ぎると徐々に持ち味を出してくれました」
 まだ大卒2年目だった赤井は、右足からのキックを武器にしていたとはいえ、決してテクニックが他より秀でていたわけではなかった。だが、望月が求めるコンセプトを理解し、それを忠実にピッチで体現することで外せない選手になっていく。

「望月さんにはゲームに出る上での基本や、最低限必要なことを教えてもらいました。それは今の自分のベースになっています。そして、これからもそのベースは変わりません」
 赤井のみならず、クラブ全体に指揮官のスタイルが浸透した愛媛は、リーグ戦の後半に入って順位を徐々に上げ、首位に立つ。その後、若干の浮き沈みはあったが、J昇格基準であるJFL2位以上の位置をキープした。

 そして11月27日、ホンダFCとの最終決戦がやってきた。この試合に勝てば2位以上が決定し、悲願のJリーグ入りが確定する。赤井はベンチスタートだった。ゲームは立ちあがりからホンダペース。前半ロスタイムには先取点を奪われてしまった。後半に入ると、愛媛は攻撃のコマを投入して局面の打開を図る。チャンスは増えてきたが、1点ビハインドの状況は変わらない。重苦しい雰囲気がピッチ上を包み始めた。

 ムードを一転させたのは、後半8分にピッチに送り込まれた赤井のキックだった。後半31分、味方が放ったシュートのこぼれ球を右サイド深くで受けた。視界には相手DFがいち早く、ゴール前を固めようとしている様子が入った。自分がキープして味方の上がりを待つのもひとつの手だ。だが、それでは攻めが遅くなる。
「このタイミングなら何かが起きるかもしれない」
 ためらうことなくボールをゴール前に放り込んだ。それは慌てて戻った相手DFの足に当たり、ゴールへと吸い込まれた。

 起死回生の同点ゴール。勢いに乗ったオレンジの集団に勝ち越し弾が生まれるのは、そのわずか1分後だった。最後はロスタイムにダメ押しとなる得点を決めて3−1。越えたくても越えられなかったハードルを愛媛はようやくクリアした。

「結果はオウンゴールでしたけど、あの得点は彼自身の“Jリーガーになりたいんだ”という思いが凝縮していたように映りましたね」
 後ろでゴールを守っていた羽田敬介(現清水ユースGKコーチ)はそう語る。羽田は清水エスパルス、セレッソ大阪とJ1クラブに9年間所属し、故郷の愛媛に戻ってきた。Jリーグの経験者として、プロとはどうあるべきかを練習や試合の中で若い選手に伝えていた。「グラウンドで何ができるか考えろ!」「どんな調子であれ、結果を残すのがプロ」。まだ学生気分の抜けきらない赤井たちに口酸っぱく言い続けてきた。

「あのシーンまでは試合で一生懸命プレーしていても、どこかパッとしなかった。プロは頑張っただけではダメな世界です。大事な試合で結果を残したことで、彼の本領が出てきたように思います」
 羽田の抱いた印象と同様のことを望月も感じていた。
「あの場面で勝負をかけるのはなかなかできない。これは何か持っているなと。プロとしても使える選手かもしれないと、その時、初めて思いました。それまでは良くも悪くも“平均点”の選手でしたから」

 当の本人は「うれしかったけど、まだJリーガーになれるという実感はわきませんでした」と回想する。2005年11月27日。それは愛媛FCがJ2入りを決めた日であると同時に、赤井にとってはプロサッカー選手になる夢を名実ともに叶えた日になった。

(最終回へつづく)
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赤井秀一(あかい・しゅういち)プロフィール>
1981年9月2日、北海道生まれ。ポジションはMF。札幌サッカースクールでは山瀬功治(横浜FM)らとともにプレー。札幌光星高から仙台大を経て、04年に当時JFLだった愛媛に加入。サイドもボランチもこなし、堅実なプレーでクラブに貢献している。07年からの3シーズンで欠場はわずかに4試合。09年も最多の50試合に出場し、中盤には不可欠な存在となっている。昨季から副キャプテンも務める。J2通算166試合、19ゴール(昨季終了時)。173センチ、66キロ。




(石田洋之)
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