2006年3月4日。愛媛県総合運動公園陸上競技場。愛媛FCはJ2に昇格し、記念すべき開幕戦をホームで迎えた。相手は横浜FC。三浦知良、城彰二と元日本代表のスターが2トップを組むとあって、1万人を超える観客がスタジアムに足を運んだ。試合はスコアレスドローかと思われた88分、途中出場のMF猿田浩得が値千金のゴールを決めて1−0。愛媛が歴史的な1勝をあげ、スタンドは大いに沸いた。
 しかし、そんな晴れのピッチに赤井の姿はなかった。実はプロ選手として始動した3日目に、疲労骨折でリタイアしていたのだ。全治は2カ月。大幅な出遅れを余儀なくされた。
「ゲーム形式の練習をやっていて、走ろうとしたら急に痛みが走りました。足をついて歩けなかったので焦りましたね。オフも遅れをとらないようにトレーニングしていたので、その疲れがたまっていたのかもしれません」

 国立で決めたJ初ゴール

 ようやくJリーガーとしてデビューできたのは、開幕から2カ月以上も経った5月17日(対水戸ホーリーホック)だった。開幕戦こそ勝利した愛媛だったが、その後は勝ち点が思うように伸びず、苦戦が続いていた。当時の状況を監督を務めていた望月一仁(現ジュビロ磐田育成統括)はこう語る。
「開幕から中盤は左サイドに濱岡(和久、現栃木ウーヴァFC)、右サイドにミノル(菅沼実、現柏レイソル)を置いてきたんだけど、ミノルがなかなか機能しなくて……。それで試しにシュウを右に入れて、ミノルを左に入れる布陣を試したら、うまくバランスがとれるようになったんです」

 柏から期限付き移籍でやってきた菅沼は得意のシュート力をアピールしようとするあまり、個人プレーに走る欠点があった。相手のDFラインを崩してチャンスを拡大する前に、強引なミドルシュートを枠外に放ち、望月監督の頭を悩ませた。指揮官が赤井に求めたのは高い運動量だった。
「右サイドで動いて相手ディフェンスを引っ張れば、左サイドが空く。そうすればミノルももっと中に切り込んでプレーができる。こちらが意図していた動きを、シュウは忠実に守ってくれました」
 菅沼に待望のゴールが生まれたのは、赤井を右サイドに起用した2試合目のことだ。四国ダービーの徳島ヴォルティス戦(6月24日)。右サイドの深い位置で赤井が折り返したボールを、中央に入ってきた菅沼が受け、豪快に決めた。まさに望月が描いていた通りの攻撃パターンだった。以後、愛媛の中盤両サイドは、この2人の組み合わせが軸になっていく。
 
 そしてJ初ゴールを決めたのはサッカーの聖地・国立競技場だった。8月6日。相手は名門・東京ヴェルディ1969(当時)。「コンスタントに試合に出られるようになって、ある程度、自信がついてきた頃でした。もちろん国立のピッチは高校サッカーをしていた頃から憧れの場所。ピッチに入った瞬間、“デカイ”と思いました。やっぱり他の競技場とは違いましたね」

 1度はプレーしてみたかったピッチで、背番号16は躍動した。1−1で迎えた前半7分、右サイドから縦パスが通る。相手DFの対応が遅れ、ゴール前に抜け出した赤井はフリーでボールを受けた。右45度の角度からすかさず右足を鋭く振り抜くと、ボールは弾丸のごとくゴールネットへ。初ゴールは豪快な一撃だった。

 さらに30分、右サイドに切り込んで、低いクロスをあげると、今度は相手DFの足にあたってゴールイン。オウンゴールを誘い、愛媛の勝利を決定づけた。当時25歳だった赤井は控えめながら、こう喜びを表現している。
「初めて点が取れた試合で勝利に貢献できたことがうれしい。最近ようやく監督の指示通り、サイドのスペースに出して、ドリブル、クロス、シュートを仕掛けられるようになってきた」
 
 目標はあくまでもJ1昇格

「結局、シュウが運動量豊富でダイナミックなサッカーをしている時は、いいサッカーができている。だから、うまくやろうとし過ぎないで、どんどん前や後ろのスペースに飛び出してほしい」
 望月は昨年9月、成績不振のため、監督を解任された。赤井にとって「自分を成長されてくれた」恩師との突然の別れ。正直、ショックだった。だが、これがプロの世界の現実だと悟った。磐田で若手育成に携わる前指揮官は、今でも可能な限り、愛媛の試合をチェックしている。後任にクロアチア人のイヴィッツア・バルバリッチ監督が就任し、新戦力も加わった。だが、いかにメンバーが入れ替わろうとも、赤井がクラブに不可欠な存在であることに変わりはない。

「彼こそ“ミスター愛媛”と言えるでしょう」
 望月もJFL時代を知るクラブのOBたちも異口同音にそう話す。それは、ただ愛媛に長く在籍しているからではない。選手強化費が潤沢とは呼べない状況下のクラブにとって、決してエリートではなかった男が主力選手に成長した事実が貴重なのだ。愛媛がクラブとして進化するにあたって、赤井のような存在はお手本となる。

「まだまだすべてにおいて成長したいし、成長できると思っています。1年1年、いや1日1日、少しでも走れるように、キックがうまくなるように頑張ります。成長できなければ、プロとしては残れない。立ち止まることはないですね」
 今季、愛媛は過去最高の8位以上を目標に掲げている。しかし、赤井は「それは最低限の目標。あくまでも狙いは昇格にからむこと」と言い切る。客観的にみれば、まだ一足跳びでJ1を狙える実力はまだついていない。経営面や集客面でも、まだまだJ1クラブになるにはクリアしなくてはならない課題がたくさんある。

 それでもクラブ最古参の副キャプテンは「昇格はブレるような目標であってはいけない」と語る。夢は夢のままでは終わらない。進歩を止めない“ミスター愛媛”がいる限り。

(おわり)
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赤井秀一(あかい・しゅういち)プロフィール>
1981年9月2日、北海道生まれ。ポジションはMF。札幌サッカースクールでは山瀬功治(横浜FM)らとともにプレー。札幌光星高から仙台大を経て、04年に当時JFLだった愛媛に加入。サイドもボランチもこなし、堅実なプレーでクラブに貢献している。07年からの3シーズンで欠場はわずかに4試合。09年も最多の50試合に出場し、中盤には不可欠な存在となっている。昨季から副キャプテンも務める。J2通算166試合、19ゴール(昨季終了時)。173センチ、66キロ。




(石田洋之)
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