「おう、ここだ」
 待ち合わせのホテルの喫茶店に入って、辺りを見回していると、野太い声がした。声の方向を見ると、白髪の男が手を挙げていた。
 ずいぶん予想と違っていた。

 写真誌の記事にぼくも影響を受けていたのかもしれない。太って、ダブルのスーツに金のネックレスを胸元から見せているような男を想像していたのだ。実際の納谷宣雄は、シンプルなシャツを着た若々しい男だった。
「初めまして」
 頭を下げると、「まあ、座れ」と前の席を指さした。
 そこから二時間以上、ぼくたちは話すことになった——。

 納谷がサッカーを始めたのは、小学生の時だった。担任の教師がサッカーを教え、すぐにボールを蹴ることに熱中したという。小学校にはサッカー部がなかったので、城内中学に進学してから公式試合に出るようになった。
「当時は、WMシステムだ。ハーフをやらされたっけな」
 WMシステムとは、今風に言えば、3−2−2−3である。その布陣が「W」と「M」に似ているため、WMシステムと呼ばれていた。前線に再度アタッカーを置く、前のめりの攻撃的なシステムである。
 中学校時代に出会った恩師も、またサッカーが好きだった。
――宣雄、サッカーはすごいぞ、ヨーロッパでもアジアでも、みんなサッカーが国技だ。きっと日本もそうなる。
 その教師は、戦争でビルマに滞在した経験があった。当時のビルマでもサッカーが最も人気があったという。
「静高(静岡高校)二年のときに、4−4−2を教育大の人が教えてくれた。その時は、いわゆるトップ下をやっていた。当時の静岡は、静高と藤枝東と清水東の三つが強かった。富山の国体予選の時だったかな。俺らが準決勝で藤枝東を破って、決勝で清水東とあたった。雨の日で、二対一で負けちゃっただよ。当時は、午前中の準決勝で午後に決勝。今から考えると滅茶滅茶だよ。そういう時代だものな」
 この時、清水東にいたのが、後に日本代表に選ばれる杉山隆一である。
「大学行ってサッカーやろうにも、家に金がなかった。親父とお袋が高校三年生の時に離婚をした。サッカーで大学に行ったら、アルバイトができないじゃない? となるとある程度金がないと、大学でサッカーはできないわけだよ。そりゃ、杉山たちが日の丸をつけているのを見たら悔しかったよ。自分が日の丸をつけられなかったから、子どもたちにつけさせたいというのはあった」

 納谷が最初に現地まで足を運び、W杯を見たのは1966年W杯イングランド大会だ。
「すげぇ、試合だったよ。イングランドのキーパーのゴードン・バンクスが指先でシュートをはじいた。自分たちの知っているサッカーと全く違っていた」
 この大会は『GOAL』という記録映画になり、日本でも公開された。
 納谷は『GOAL』のフィルムを借りて、静岡市の公民館で上映会を開いた。日本の人にもっとサッカー、W杯の凄さを知って貰いたいと思ったのだ。完全にサッカーに取り憑かれていた。
 当時、納谷は父親の経営するワイシャツ屋を手伝っていた。その一角でサッカー用品を販売しており、次第にその割合が増えていった。
 納谷は、ワイシャツ屋を閉めて、サッカー専門のスポーツ店をオープンさせることにした。
——とろいな。サッカー専門なんてできる訳もない。
 と、周囲から呆れられたという。
 店名は、『サッカーショップ・ゴール』。もちろん、映画『GOAL』から取ったものだ。
「ところが、この店は今も続いている。サッカー専門店としては日本で最初だった」
 メキシコで行われた七十年大会、納谷は8ミリの映写機を持ち込み、試合を撮影した。
 70年のW杯はブラジルの大会だった。
 ペレ、トスタン、ジェルソン、リベリーノ、ジャイルジーニョ、カルロス・アルベルト・トーレス——きらめくような才能が溢れていた。ブラジルは順当に勝ち進み、三度目の優勝を遂げた。
 納谷は日本に帰ると、自分が撮影した映像を静岡各地で上映して回ることにした。サッカーをする人間が増えれば、サッカーショップの売り上げが増える、と考えたのだ。
 その映像を見た中には、納谷の二人の息子がいた。
 泰年と知良の二人である。
——将来、日本代表になってW杯に出る。
 二人は納谷にそう宣言したのだ。
(写真:70年大会のブラジル代表は、未だに史上最強のチームと評価されている。その中心には、ペレがいた)

 彼の話を聞いていると、本当にサッカーが好きだということが伝わってきた。
 そして、同時にぼくの頭の中で、あの“噂”が広がってきた。
「聞きづらいことなんですが……」
 サッカーボールの中に覚醒剤を忍ばせて逮捕されたという、サッカー関係者の言葉は、本当なのか。
 納谷はぼくの問いに「違う」と大きく首を振った。
「確かに俺は覚醒剤で逮捕されたことがある。ただ、その話は嘘だ。当時、俺は韓国でサッカーボールを作って輸入していた。覚醒剤の逮捕とそのボールが勝手に結びつけられてしまったんだ。覚醒剤については、ある義理のある人間から、預かってくれと頼まれてもっていただけだ。それでパクられた。でも、俺は預かった人間の名前を言わなかったがな」
 納谷は自慢げに笑った。
 この事件の代償は大きかった。
 納谷は離婚し、日本から離れることにしたのだ。
 時間はあっと言う間に過ぎた。
「また、話が聞きたければ、いつでも電話して来てくれ。手術までは日本にいるから」
 手術——この手術がどれだけ厄介なものなのか、この時ぼくは知らなかった。
(写真:納谷が向かったのは、日系人が多く住むブラジルだった)

(続く)
(写真撮影:西山幸之、アスレタ・ブラジル)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入り著書多数。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。2010年2月1日『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)を刊行、さらに4月『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)を刊行。






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