2010年3月18日(現地時間)、日本列島に激震が走った。カナダ・バンクーバーで開催されたパラリンピック。アイススレッジホッケー日本代表が強豪カナダを破り、史上初の決勝進出、そして初のメダル獲得を決めたのだ。アイスホッケーはカナダの国技であり、国民に最もポピュラーなスポーツとして愛されている。実力も世界屈指を誇り、まさにアイスホッケーの本場である。その強豪国相手に、しかも会場は地元ファンで埋めつくされた完全アウェーの状態での日本の勝利は、日本アイスホッケー界の歴史を大きく塗り替える快挙だった。
 試合終了の合図とともに、ベンチで吠えながらひと際大きくガッツポーズをする男がいた。日本代表ヘッドコーチ中北浩仁、46歳だ。決して妥協を許さなかった中北の8年間の熱血指導が花開いた瞬間だった。日本の栄光はこの男なくして語ることはできない。
(写真:燃えたぎる聖火のように、中北<右上>の闘志も燃えていた)
 日本がパラリンピックに初めて参加したのは1998年長野大会だ。アイススレッジホッケーチームも同大会から出場し、前回のトリノ大会(06年)までの成績は3大会連続5位。決勝トーナメントにはあと一歩のところで届かず、メダル獲得は悲願とされていた。今大会は、出場権を兼ねて行なわれた昨年5月の世界選手権で初めて4位となったこともあり、これまで以上に周囲からもメダルへの期待が高まっていた。
 パラリンピックでは2プールに分かれて総当りのリーグ戦を行ない、各プール上位2チームずつ、計4チームによって決勝トーナメント(準決勝、3位決定戦、決勝)が行われる。日本の予選の相手はチェコ、韓国、そして世界ランキング1位の米国。その中で中北は何よりも初戦のチェコ戦がキーポイントと見ていた。そのためには心身ともにベストな状態をつくっておく必要があった。

 今大会、アイススレッジホッケーは3月6日の入村後、本番まで1週間の公式練習が与えられていた。中北はそのうち3日間を練習試合にあてた。
「まずはアメリカと2試合しました。これは堅苦しい形式のものではなく、好きなタイミングで止めて指示を出しながらのゲームでしたので、お互いにいい調整ができました。実はその翌日のイタリア戦は予定していなかったんです。でも、イタリアから打診されたので受けることにしました。イタリアは強豪とはいえませんが、成長著しく、決して侮れないチーム。そういう意味ではチェコと同じなんです。初戦を想定してやっておくのもいいかなと。選手はちょっとブツブツ言っていましたが(笑)、いつになくいい仕上がりの状態で本番に臨めたと思います」

 自信をもって本番を迎えた指揮官とは裏腹に、トリノ大会に続き、主将としてチームを牽引した遠藤隆行は不安な気持ちを抱えていたという。
「アメリカと2試合をやって、ちゃんとしたゲームではなかったにしろ、やっぱり差をみせつけられた、という感じだったんです。それに加えてイタリアには快勝できるかなと思っていたら、意外にもやっとやっと勝てた、という内容で……。正直言って『大丈夫かな……』という不安な思いがありました。でも、それが結果的にチームにいい緊張感をもたらしたと思います」

 決定力不足を打破する会心の一撃

 13日午後8時(現地時間)、チェコとの試合が始まった。日本の最大のピンチは第1ピリオドに訪れた。試合開始から約10分が経過したところで、GK永瀬充からDF遠藤へのパスをゴール前に詰めていた相手にカットされたのだ。先取点を奪われてもおかしくなかったが、これを永瀬が必死で止め、なんとか難を逃れた。危機一髪、ピンチを凌いだ日本は、ここから速いパス回しで次々とチェコのゴールを襲った。しかし、なかなか得点することができず、試合は0−0のまま第1ピリオドを終えた。

 均衡を破ったのは、日本だった。第2ピリオド開始早々、遠藤がスピードをいかし、スルスルと相手ゴール前へ。一度目のシュートが身長190センチ以上の相手GKに当たって跳ね返ったところを、遠藤自らがリバウンドを拾い、ゴールに押し込んだ。日本、待望の先取点! ところが、喜んだのも束の間、ゴールシーンを後方から見ていたレフェリーが、両手を左右に振り、ノーゴールの判定を下したのだ。しかし、勝利の女神は日本を見捨てなかった。改めて協議をした結果、遠藤のシュートが認められ、日本が1点をリードした。

 振り返って中北は言う。
「これまではかたちにこだわり過ぎて、パスまではうまくいっても、最後のシュートが入らなかった。いわゆる決定力不足が課題だったんです。だからバンクーバーではゴール前を厚くして、怒涛のように攻めるんだと言い続けてきたんです。きれいなかたちでなくてもいい。とにかく得点を取ることにこだわろうと。それをキャプテンの遠藤がやってくれた。そういう意味でも本当に大きな1点でした」
中北にとっても会心のゴールだった。

 そのまま1−0で迎えた第3ピリオドの序盤、チェコが反撃を見せ、同点に追いつかれた。それでも中北に焦りはなかった。
「同点にされても、負けるとは微塵にも思っていなかったですね。我々は終始攻めていましたから」
 その言葉通り、次の1点を取ったのは日本だった。自陣でパックを奪ったFW上原大祐からのパスを受けたDF石田真彦が、相手DFをフェイントでかわしながら一気に一人でゴール前へ。飛び出したGKの脇からシュートを放つと、パックが相手ゴールに突き刺さった。これには中北もシビれたようだ。
「あのシュートはロートル42歳の技ですね。出場選手としては最高齢の彼が、なんとも味のある攻撃をしてくれました」
 試合はそのまま日本が1点を守りきり、初戦を白星で飾った。

「チェコと韓国には絶対に勝つという気持ちできた。意気込みも何も(次の韓国戦も)勝ちます!」
 試合後のインタビュー、「勝負はこれからだ」と言わんばかりに終始厳しい表情を崩さなかった中北だったが、インタビュー終了と同時に笑顔となり、そして一瞬、そっと手を胸にあてた。
「えっ、そうでしたか? 自分では覚えていないんです。いや、でもあの時はホッと胸をなでおろしたというのが正直なところでした。それほど初戦って大きいんですよ」
 無意識に胸にあてた手が彼の心境を全て物語っていた。

 翌日、日本は韓国と対戦した。この試合、中北は勝敗のみならず内容にもこだわっていた。
「絶対に完封で叩きのめしてやろうと思っていました。韓国は今、メキメキと力をつけてきている。だから調子に乗せないためにも、こてんぱんに粉砕してやろうと。点差だけを見れば、控えの選手にも出場の機会を与えられた試合だったと思います。みんな日本から家族が遠路はるばる応援に駆けつけてくれている。それを考えたら、なおさらです。でも、私は最後まで手を抜くことはしませんでした。最後の最後に1点でも入れられるのは絶対にイヤでしたから」

 この指揮官の考えに主将の遠藤も賛同していた。
「捨てていいゲームなんて1試合もないですから、いくらリードしていても、ベストを尽くすのは当然だと思います。韓国はこれからのチーム。ここで日本の強さを見せておくことは今後のためにも必要なこと。それに他の国に対しても、アピールできますからね。でも、控えの選手の家族も来ていたし、監督にとっては辛い思いの中での判断だったと思いますよ」
結果は5−0の圧勝。日本は予選プール2位以上が確定し、最終戦を残して準決勝進出を決めた。

 予選最後は世界ランキング1位の米国との対戦だった。しかし、中北の頭は既に準決勝へと切り替わっていた。
「今だから言いますけど、3戦目のアメリカ戦はあまり勝敗にはこだわっていませんでした。開幕前から選手たちに言っていたのですが、とにかくこの大会で重要だったのは、1、2、4戦目でしたから」
予選通過をかけた1、2戦目、そしてメダル獲得をかけた準決勝に中北は最初から照準を合わせていたのだ。結果は0−6の完敗。さすがに中北も6点ものビハインドを負うとは思っていなかった。しかし、「これで準決勝で戦うことになったカナダに余裕をもたせることができたのでは」と中北。敗北さえも日本にとっては追い風だと感じていた。

(第2回へつづく)


中北浩仁(なかきた・こうじん)プロフィール>
1963年、香川県高松市生まれ。アイスホッケーを始めたのは6歳。中学でもアイスホッケー部に所属し、中学3年時には西日本選抜チームに選ばれて全国大会に出場した。卒業後はカナダの高校、米国の大学とアイスホッケーの本場へと留学。有望株として将来を嘱望され、自身もプロを目指した。しかし、大学4年時に右ヒザ靭帯を断裂し、選手生命を断たれた。卒業後は帰国し、日立製作所に就職。2002年よりアイススレッジホッケー日本代表監督を務め、06年トリノ大会では5位、10年バンクーバー大会では銀メダル獲得に導いた。日立製作所では敏腕営業マンとして海外出張も多く、その合間を縫ってアイススレッジホッケーの指導にあたっている。







(斎藤寿子)
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