「カナダとは1000回戦っても、おそらく999回は負けるだろう。勝率は1000分の1。明日こそ、その1試合にしようや。相手の本拠地で、しかもメダルをかけた最高の舞台で彼らをノックオフして、オレたちがメダルをとるんだ!」
 この言葉に目の前の選手たちの表情がみるみると変わっていくのが、中北浩仁にはわかった。
「よし、明日の試合だけは絶対に勝ってやろう!」
 日本のアイスホッケー界にとって、史上初となるメダルをかけた決戦を明日に控え、アイススレッジホッケー日本代表は一つになっていた。
(写真:選手全員から銀メダルをかけられ、「感極まった」中北監督)
 3月18日(現地時間)、バンクーバーパラリンピック、アイススレッジホッケーの準決勝が行なわれた。日本の相手は地元カナダ。トリノ大会のチャンピオンだ。その強豪国に対して中北はある戦略をたてていた。その名も“ノラクラ作戦”。
「カナダ戦は自ら攻撃をしかけず、自陣にひいて、きっちりとディフェンスするように指示しました。敵の陣地で労力を使うのではなく、真ん中に立っていれば、向こうは攻めあぐねる。カナダにしてみたら、攻めても攻めても得点できないとなれば、イライラしてきますよね。それを狙ったんです」

 中北にとって、それはただの思いつきではなかった。伏線は予選プールにあった。初戦、カナダはイタリアと対戦し、4−1とスコア上では快勝している。しかし、中北の眼にはそうは映らなかった。
「第2ピリオドが終わった時点でイタリア相手に1−0だったんです。というのも、スローテンポでノタクタしているイタリアにカナダがえらくとまどっていた。自分がイメージしていた通りだったんです。結局、第3ピリオドでカナダは一気に3点奪って、4−1としたんですけど、その時にこの作戦は使えるな、と確信したんです」

 前日、そして試合当日の練習で中北は徹底してゴール前を固めるフォーメーションを叩き込んだ。守って守って、相手のミスを誘い、インターセプトから速攻へ――。この中北の戦略はズバリ的中した。第1ピリオド、日本がペナルティで1人少ないキラープレー中に、ゴール前の混戦からカナダが押し込むかたちで1点を先制した。だが、中北は焦らなかった。
「先取点を取られたときには、あっ、と思いましたけど、その後の動きを見ていて、大丈夫だな、と思っていました」
 そしてリンク上のDF遠藤隆行もカナダの動きの鈍さを見て、「いけるかもしれない」という気持ちでいた。その遠藤がカナダの横パスを完全に読みきり、センターライン付近でカット。そのままゴール前へ持ち込み、ゴール右隅に同点シュートを決めた。その瞬間、中北は「よし、これでいける!」と確信したという。

「第2ピリオドを終えて1−1でしょ。カナダにしてみれば『何で日本相手に1−1なんだよ』という気持ちでいたと思いますよ。そうなれば、もうカナダは攻めることばかり。地元で格下に負けるなんて彼らにしたら許されないでしょうからね」
 果たして、カナダはものすごい勢いで攻め立ててきた。しかし、日本の堅固な守備を崩すことができない。すると終盤、カナダの打ったシュートをDF須藤悟が体で止め、跳ね返ったところをFW上原大祐が拾った。そして素早くFW高橋和廣へ。さらに再び上原へとつなぎ、決勝ゴールを決めた。
「あんなの何千回練習しても、無理ですよ」
 指揮官も絶賛するほど見事なシュートだった。

 試合時間は残り1分13秒。この大会、初めてリードを許したカナダはゴールキーパーをもあげ、全員攻撃をしかけてきた。
「とにかくディフェンスはグチャグチャにならずに、ポジションだけはきっちりとれ。あとは当たろうが何しようが、GK永瀬(充)までシュートを届かせるな!」
 中北にとってはあまりにも長い1分13秒だった。なんとか同点に追いつこうと、怒涛のように攻め立てるカナダ。その猛攻を指揮官の指示通り、必死に守る日本。会場のボルテージは最高潮に達した。

 すると次の瞬間、信じられない出来事が起こった。日本の陣地で激しい攻防が行われていたはずが、スーッと黒いパックが中北の目の前を通り過ぎていく。それはまるでパック自らの意志で動いているかのようだった。そしてそのまま、無人のカナダゴールへ吸い込まれていった。
「何が起きたんだ?」
 中北には状況がのみこめなかった。ベンチで見ている者にとってフェンス際で行われている攻防は壁があるために死角となっている。そのため、中北には何が起きたのかわからなかったのだ。実は、カナダの選手が味方に出したはずのバックパスがミスとなり、オウンゴールとなったのだ。
「喜びよりも、何だっただろう? ってそっちの方が大きかったですね。モニターを見て、ようやく理解しました。そして勝利を確信したんです」

 男泣きした表彰式の夜

 残り時間は16秒。さすがのカナダももうなす術がなかった。会場が異様な雰囲気に包まれる中、試合終了の合図が鳴り響いた。氷上では天井に向かって雄たけびを上げる者、共に抱き合う者、スタンドに向かってガッツポーズをする者――新たな歴史をつくりあげた勇者たちが喜びを爆発させていた。そしてベンチでは指揮官が拳を突き上げ、吠えていた。
「もうね、昨年5月の世界選手権からカナダ一本に絞っていたんです。負け続けた8年間のデータは、僕の頭に全部蓄積されている。だからこそ、ノラクラ作戦に絶対の自信をもっていた。もう執念と意地の勝利ですよ」

 自信をもって臨んだという中北だが「実は最も緊張していたのは監督ではないか」とキャプテンの遠藤は言う。
「試合前日に、1000回に1回は勝てる、って言ったのに、なぜか準決勝当日になったら、『お前ら、9999回は負けると思うが、1万回に1回は勝てるぞ』って言ったんです。確率を下げるなんて、試合当日に何てことを言うんだ、この監督はって思いましたよ(笑)。でも、今思えば、誰よりも緊張していたんでしょうね」

 翌日の夕方、中北は遠藤と永瀬とともに地元の報道センターでNHKの収録を行った。収録が終わるちょうどその頃、カナダとノルウェーとの3位決定戦が始まった。中北はその試合を報道センターのモニターで優越感に浸りながら見ていた。
「3人でね、お寿司をつまみながら見ていたんです。それはもう気持ちよかったですよ。明日の決勝戦を控えた僕らがお寿司片手に3位決定戦を見ているんですからね。どれだけ嬉しかったことか」

 決勝戦は米国に0−2で敗れた。米国は予選を含め、今大会無失点。まさに世界王者の貫禄を見せての金メダルだった。その米国を最少失点に抑えたのが決勝の日本だった。その決勝では第2ピリオドで日本はペナルティショット(PS)を得た。しかし、遠藤がこれを決めることができなかった。実はこの時、遠藤自身は自分が行くことを拒んでいた。
「普段、僕はPSは得意なほうなんです。前年5月の世界選手権、チェコ戦では僕のPSで勝ってバンクーバー行きを決めていますしね。でも、開幕前のアメリカとの練習試合でPSが入らなかった。だから、決勝でも入る気がしなくて、嫌だなと思っていたんです」

 中北も遠藤が嫌がっているのはわかっていた。「オレに打たせてくれ!」と言わんばかりに中北をじっと見詰める今大会絶好調の上原に対し、遠藤は目を合わせないように下を向いていた。しかし、中北はあえて遠藤を指名した。
「バンクーバーは遠藤の大会にしたかったんです。4年前のトリノでも彼はキャプテンだったのですが、勝たせてあげることができなかった。今大会は2人で4年前の雪辱を果たそうと誓っていたんです。だから遠藤で勝てば文句なし。負けてもいいじゃないかと。そうなったらそうなったで、4年後への闘志にもなりますしね」
 結局、不安感を拭えないままの遠藤のショットは、米国のゴールキーパーに完璧に抑えられた。

 それでも銀メダルは日本にとって大きな功績だった。表彰式が終わり、ドレッシングルームに戻ってきた15人の選手たちは、次々と中北の首にメダルをかけた。15個の銀メダルを胸に、中北は吠えながら選手の前で初めて男泣きした。
「傷つけちゃいけないでしょ。だから動けなかったんですけどね(笑)。全部で10キロくらいになるのかな。もう重くて重くて、どんどん前のめりになっちゃって、なんだか謝っているような感じでしたよ(笑)。でも、感無量というのはこういうことを言うのかな、と思いましたね。まぐれではなく、勝つべくして勝った。本当によくやりましたよ。選手たちには『ありがとう、よくついてきてくれた』と感謝の気持ちでいっぱいでした」
 15個のメダルの重さは、中北の8年間の思いそのものだった。


(第3回へつづく)


中北浩仁(なかきた・こうじん)プロフィール>
1963年、香川県高松市生まれ。アイスホッケーを始めたのは6歳。中学でもアイスホッケー部に所属し、中学3年時には西日本選抜チームに選ばれて全国大会に出場した。卒業後はカナダの高校、米国の大学とアイスホッケーの本場へと留学。有望株として将来を嘱望され、自身もプロを目指した。しかし、大学4年時に右ヒザ靭帯を断裂し、選手生命を断たれた。卒業後は帰国し、日立製作所に就職。2002年よりアイススレッジホッケー日本代表監督を務め、06年トリノ大会では5位、10年バンクーバー大会では銀メダル獲得に導いた。日立製作所では敏腕営業マンとして海外出張も多く、その合間を縫ってアイススレッジホッケーの指導にあたっている。







(斎藤寿子)
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