日本代表が史上最多の11個のメダルを獲得したバンクーバーパラリンピックから3カ月が経とうとしている。アイススレッジホッケー日本代表を銀メダルへと導いた中北浩仁は早くも4年後のソチ大会へと頭を切り換えている。無論、目指すは金メダル、世界の頂点だ。そして、彼にはもう一つの夢がある。それはアイススレッジホッケーを名実ともに日本を代表する競技にすることだ。
(写真:選手、スタッフとともに世界の頂点を目指す)
 中北がアイススレッジホッケーを初めて知ったのは、今から8年前の2002年のことだ。当時、彼の部下だったのが現在、車椅子バスケットボール女子日本代表ヘッドコーチの菊池哲博。彼がボランティアとして指導していた車椅子バスケットボールチームの練習を見学に行ったことがきっかけだった。
「菊池が車椅子バスケットを教えているというので、一度見学に行ったことがありました。そしたらアイススレッジホッケーチームが指導者を探している、という話があったんです」

 それまで彼はアイススレッジホッケーどころか、パラリンピックさえも見たことがなかった。果たして、アイスホッケーの本場で技を磨いてきた彼にはどんなふうに映ったのか。
「正直、車椅子でスレッジだなんて、どんなものか想像できなかったんです。ところが、実際に見に行ったらイメージしていたものとは全く違いました。それこそもう、スポーツそのものでしたよ」
 大きな衝撃を受けたと同時に、アイススレッジホッケーに魅力を感じた中北は、監督就任を快諾した。

 しかし、全く不安がなかったわけではなかった。
「僕はケガをしてアイスホッケーをやめた人間でしょ。でも、彼らは障害を乗り越えてまでアイススレッジをやっている。たかが靭帯を切ったくらいで諦めた僕を彼らが果たして認めてくれるかどうか、という不安はありましたね」
 中北は腹を決め、とにかく選手と真正面に向き合っていこうと考えた。認識や意見の食い違いで何度も何度も選手と衝突した。時には「なんでオマエにそんなことを言われなくちゃいけないんだ」と言われたこともあった。しかし、中北は決して選手と接することにも手を抜かなかった。本音でぶつかり、話し合いを繰り返した。そして、少しずつ距離を縮めていったのだ。
「彼らは底抜けに明るくて、いいヤツらばかりだった。分かり合えるまでには時間がかかりましたが、辛抱強く壁を一枚ずつ取り除いていったんです」

 次なるステップは技術の習得だった。まずはアイスホッケーの基本から教えた。しかし、選手たちには皆、それぞれのクセがあった。それを取り除くのに多くの時間を費やさなければならなかった。そうしているうちにも、トリノパラリンピックが着々と迫ってきていた。
「とにかく時間が足りませんでした。世界で戦うには戦術も教えなくてはいけませんし、外国人に負けないパワーやシュート力も必要だった。今思えば、あれもこれもと選手に詰め込みすぎちゃいましたね」

 結局、トリノ大会は予選を勝ち抜くことができず、長野、ソルトレークシティに続いて3大会連続での5位という結果に終わった。その敗因は自分にあったと中北は言う。
「選手をギュッと押さえ込んだ状態にしてしまったんですよ。というのも、自分が戦闘モードに入っちゃったもんだから、監督というより自分が選手として戦っている気持ちになっちゃったんです。アイスホッケー一筋の人生を送ってきたものだから、『余計なことを考えるな』とオフの時間を全く与えなかった。そうやって選手を逃げ場のないところまで追い込んでしまったんです」
 指導者として初めてのパラリンピック。選手にも、そして自分にも余裕をもたせることができなかった。 

 大会終了後、チームは解散。中北はビジネスマンとしての多忙な生活に追われながら、監督を続けようかどうか迷っていた。そうこうしているうちに1年が過ぎた。バンクーバーに向けて始動する他国とは裏腹に、日本は代表としての活動はほとんど行われず、中北もまだ決めかねていた。そこへ舞い込んできたのがスウェーデンへの遠征だった。中北が声をかけると、10人ほどの選手が集まった。トリノの時とは違い、皆、気楽な気持ちで挑んだ。すると、伸び伸びとプレーをしたのが功を奏したのか、格上のノルウェーに勝つという金星をあげてしまったのだ。選手たち同様、中北はアイスホッケーの楽しさを改めて感じた。そして再び日本代表の指揮を執ることを決意した。

「選手たちが『やっぱり、やろうよ』と言い始めたんです。僕自身、ここで辞めてしまったら、これまで積み上げてきた経験がもったいないと思いました。というのも、僕みたいなアイスホッケー経験者が監督をしたら、必ず同じ失敗をするんです。自分と同じレベルにまで引き上げようと、どうしても選手たちにギュウギュウと詰め込もうとしてしまう。そうすれば、トリノの二の舞になってしまう。僕自身で何とかしない限り、このままでは誰かにバトンタッチすることはできないなと思ったんです。だからもう一度、やる覚悟を決めたんです」
 奇しくも次のパラリンピックの開催地は中北とは縁の深いカナダのバンクーバー。トリノでのリベンジの場としてはこれ以上ない最高のシチュエーションだった。

 ソチへのスタート

 バンクーバーでのメダル獲得に向けて着手したのは、海外遠征を増やすこと。日本人選手よりも体格もパワーも勝る外国人選手を相手にしても怖がらずにどう戦えばいいのか、その試合勘を養うためだった。10代からの留学生活で養った英語力と、海外市場を飛び回る営業マンとして培った外交力で、中北は可能な限り世界トップチームとの試合を組んだ。

 しかし、故障、転勤、結婚、子育て……とさまざまな事情で主力選手が欠けることが多く、なかなか思うようなチームづくりができなかった。ようやくメンバーが揃ったのは、バンクーバーパラリンピックの出場権をかけて行なわれた09年5月の世界選手権。本番までもう1年を切っていた。だが、それでも日本は初のベスト4という好成績を残した。その勝因を中北はこう分析する。
「主力がいなかった時期に他のメンバーが強くなれたんだと思います。世界の強豪相手にボロ負けはするものの、自分たちだけで勝つにはどうすればいいのかを考えながら、主力がいないならいないなりの戦いができた。そして、復帰した主力メンバーも『迷惑をかけた』という思いで必死だったでしょうからね。結果的にはチームの底上げにつながったのだと思います」

 そして本番1カ月半前、最終メンバーを発表すると、中北は主将を上原大祐から遠藤にかえた。中北としては最初から決めていたことだった。しかし、トリノ大会後、遠藤は自ら主将を降りていた。
「トリノでは技術的なものというよりも、チームとして問題があったように思えたんです。だから、改善策を監督に提案したのですが、それを受け入れてもらうことができなかった。それならば、僕はもうキャプテンをやる自信はない、と。中北監督はそれでも僕を推してくれていましたけど、キャプテンをやるからにはチームに責任をもたなければいけません。だから、やっぱりできないとお断りしたんです」

 そこで、中北は選手の育成を考慮しバンクーバーまで二極体制で臨む決意をした。それは、バンクーバー行きを決め、最終メンバーを発表するまでの上原体制と、バンクーバー・パラリンピック日本代表チームを牽引する遠藤体制だった。 
「上原はどちらかというと、ムードメーカーとしてプレーでチームを引っ張るタイプなんです。なので、キャプテンを任せたことで、逆にプレーに集中できず本人も相当悩んだと思いますし、その苦労を力に変えてもらって、バンクーバーでは自由に伸び伸びとやらせたいと考えていました。一方、遠藤は周りを気遣えるんですね。だからこそ、他のメンバーも遠藤がチームのことで悩んでいると、なんとかしなくちゃいけないとなる。チームに結束力が生まれるんですよ。それに、私と遠藤にはやり残したことがありましたからね」

 3月6日、アイススレッジ日本代表が選手村に入った。「絶対に同じ失敗はしない」と心に誓った中北は、トリノでの反省を生かし、選手にできるだけの自由時間を与えた。選手は皆、応援にかけつけた家族とショッピングを楽しむなど、のんびりと思い思いの時間を過ごした。そして中北もまた、トリノとは違う自分がいることに気づいていた。
「もちろん、『よし、やってやるぞ』という意気込みは十分にあったんです。でも、すごく落ち着いていたんですよ。普通は、大会期間中にいい時と悪い時があるものなんです。でも、バンクーバーでは決勝までずっと気持ちが安定していました。こんなことは初めてです」
 
 オンとオフのメリハリがチームに絆を生み出し、驚異的な集中力をもたらした。結果は日本アイスホッケー史上初の銀メダル。その功績は日本でも大きく取り上げられ、アイススレッジの存在を広く知らしめることとなった。そして中北は今回、金メダルではなく、銀メダルだったことに価値がある、と見ている。
「銀メダルという結果に満足しているわけではありません。でも、今回金メダルを獲っていたら、僕も選手も一気にアイススレッジへの火が消えてしまったと思うんです。多くの金メダリストを見てもわかるように、やはり世界の頂点に立つと、そこからモチベーションを維持するのは難しい。日本のアイススレッジをさらに発展させるためにも、今回は銀メダルでよかったのかもしれません」

 閉会式の日、中北は高熱を出した。普段、ほとんど風邪をひかない鉄人が久々に出した熱だった。体は重く、声も全く出なかった。終始気持ちは安定していたとはいえ、やはり疲労はピークに達していたのだろう。パラリンピックでメダルを獲得するということは、それほどの集中力と緊張感を要するのだ。

 帰国後、中北はしばらく監督を続行するか否かを考えていた。自分自身がやり続けることで、後継者が育たないのでは、という懸念からだった。また、環境整備という観点から言えば、指導者ではなく、外側からチームを支える方法も十分に考えられた。しかし、中北はやはり監督という道を選んだ。
「紆余曲折ありましたが、ようやくここまできた。今、辞めてしまえば、大きな悔いが残ると思ったんです。今思えば、バンクーバーが終わると同時に、既にソチに気持ちは向かっていたんでしょうね」
 中北は今がスタート地点だと思った。

 テクニック、フィジカル、メンタルといった選手のレベルアップはもちろん、環境整備、そして人材育成と、アイススレッジホッケー日本代表が抱える課題は山積している。金メダルへの道のりは近いようで、遠い。そこへ行き着くまでにはさまざまなことを乗り越えなければならない。だが、決して不可能ではないはずだ。
「今回の銀メダルで、少しはアイススレッジという競技が認知されたと思います。実際に思いも寄らないところから支援の声がかかったりと、徐々に輪が広がっているなと感じています。これからようやく外に向けてさまざまな活動ができるようになるのかなと。だからこそ、ゼロスタートなんです」

 普段、月の半分は海外を飛び回っている中北。多忙を極める仕事の合間を縫ってアイススレッジの指導にあたっている。ほとんど休日はなく、仕事もアイススレッジも決して手を抜かない彼の睡眠時間は平均3、4時間だ。なぜ、そこまでして彼はアイススレッジの指導者を続けようとするのか。
「ひと言で言えば、“ドリームズ・カム・トゥルー”ですよ。僕の夢はNHLの選手になることと、日の丸を背負ってオリンピックに出ることだったんです。でも、結局それはかなわなかった。その時の悔しさとか夢だったものを、今はアイススレッジの指導者として叶えられるチャンスをもらっている。そのことにすごく感謝しているし、自分は本当に強運の持ち主だなと。もちろん、これからもいろいろと大変なことはあると思います。でも、試練は乗り越えられる人にしか与えられない。だったら、乗り越えてやろうじゃないかと」

 好きな言葉は「一筋の道」。中学卒業時、単身カナダへと留学が決まっていた中北が寄せ書きに書いた言葉だった。
「子供ながら『自分の道を突き進むんだ』と思っていたんでしょうね。そこから、今がつながっているような気がするんです。ヒザの靭帯は切れましたけど(笑)、運命はつながっているんです」

 追いかける側から追いかけられる側へとなった日本。そのプレッシャーは計り知れない。だが、この男ならプレッシャーを勢いにかえ、日本を世界の頂点へと導いていってくれるに違いない。
 中北浩仁、46歳。今、4年後のソチへと舵を切った。

(おわり)


中北浩仁(なかきた・こうじん)プロフィール>
1963年、香川県高松市生まれ。アイスホッケーを始めたのは6歳。中学でもアイスホッケー部に所属し、中学3年時には西日本選抜チームに選ばれて全国大会に出場した。卒業後はカナダの高校、米国の大学とアイスホッケーの本場へと留学。有望株として将来を嘱望され、自身もプロを目指した。しかし、大学4年時に右ヒザ靭帯を断裂し、選手生命を断たれた。卒業後は帰国し、日立製作所に就職。2002年よりアイススレッジホッケー日本代表監督を務め、06年トリノ大会では5位、10年バンクーバー大会では銀メダル獲得に導いた。日立製作所では敏腕営業マンとして海外出張も多く、その合間を縫ってアイススレッジホッケーの指導にあたっている。







(斎藤寿子)
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