半年ほど前から、体調が優れなかった。
(暑さに弱くなった。50才に近くなって身体が弱くなったかな)
 三浦知良の父親、納谷宣雄は照りつける太陽を眩しそうに見上げた。身体がだるく、立っていられないほどの疲労を感じた。
 試合が始まってから20分ほどと早いが、審判をしていた納谷は笛を吹いて試合を中断した。

(写真:日本人学校のサッカー教室には、ブラジルに住んでいた頃、知良や泰年も姿を現した)
 毎週日曜日、納谷は日本人学校でサッカーを教えていた。
 当時、日本企業は力に溢れ、世界に目が向いていた。ブラジルの商業の中心、サンパウロの中心地には、日本人企業が集まっていた。駐在員の子ども、小学生、中学生を合わせれば五、六百人はいた。
 せっかくブラジルに住んでいるのだから、サッカーをやりたいという子どもは多く、納谷が無償で行っていた、サッカー教室の人気は高かった。
 日陰で休んでいると、身体に力を戻ってくるのを感じた。
(身体が暑さに耐えきれなくなったのかな。日本に帰る前に、サンパウロの医者のところで診てもらうことにしよう)
 体調が急変したのは、日本に一時帰国する日のことだった。
 夜中に出発する日本行きの飛行機に合わせて、荷造りをしていると、猛烈な吐き気がした。かかりつけの医者に診て貰ったが原因ははっきりしない。日本人街リベルダージにある、医院で精密検査を受けることを勧められた。
 リベルダージに向かう車の中で、吐き気は増していた。口から何かが飛び出てくるのを抑えるので必死だった。これ以上我慢できないと思ったとき、車は医院のビルの前で止まった。
 その瞬間、納谷は血を吐いた。
 車の床に流れる、自分の血を見ながら記憶は薄れていった。

 納谷が目を開けると、見慣れない天井だった。
(一体ここはどこだ?)
 目の端に2人の男の姿が映った。よく見ると、息子の知良と泰年だった
「お前ら、なんでここにいるんだ」
 納谷が声を絞り出すと、2人は顔を見合わせた。
「俺はやべぇのか?」
 泰年が微笑んで言った。
「お父さん、助かったんだよ」
 肝硬変による静脈瘤破裂。バケツ2杯もの血を吐き、5日間昏睡状態だったという。
 泰年と知良は、所属していた読売クラブで香港遠征に出かけていた。父親が倒れたという連絡を受けて、急遽、遠征を切り上げて、サンパウロまでやってきたのだ。
 2人は納谷の意識が戻ったのを確かめて、翌日慌ただしく日本に戻っていった。
 病院で寝ているうちに、体調は少しずつ回復した。入院するならば、日本の病院に入りたいと訴えたが、医師はとんでもないと首を振った。
(写真:リベルダージに向かう途中、車の中で納谷の吐き気はひどくなった)

 日本に帰ることができたのは、血を吐いてから3週間後のことだった。
 納谷の説明を聞いた日本人医師は絶句した。
「良くそんな身体で帰ってきましたね。それより、良く命が助かった」
 日本語で説明を受けて、症状の重さをきちんと理解した。血を吐いて、昏睡状態になった場合、生存確率は10パーセントだったという。
 そして、余命は3、4年――。
「これからは、節制して生活しないといけませんよ」とたしなめるように言った医師に、納谷は心の中で反発していた。
(馬鹿野郎、逆だ。どうせ死ぬんだ。これから人生好きにやってやろう)
 すでにサッカー留学で納谷は成功を収めていた。ラスベガスや韓国に行き、好きな賭博で散財した。
 何より、納谷は息子たちの試合を見るために、日本代表の後を追って回った。
 知良は、1990年9月のバングラデシュ戦で初めて日本代表として出場。その後、監督就任したオランダ人のハンス・オフトの下、92年に初めてアジアカップを制した。
 ブラジルでは、いわゆるウィングプレーヤーとしてチャンスメーカー的な役割だった知良は、スタイルを変え、得点を多く挙げるようになった。
 その象徴が、アジアカップ予選グループ最終戦のイラン戦だった。後半終了間際に決勝点となるゴールを決めたのだ。勝負所で得点を取れる知良は、日本サッカーの中心となっていた。

 次に乗り越えるは、W杯出場という高い壁だった。94年W杯アメリカ大会が近づいていた——。
 子どもの頃、納谷に約束した「将来、日本代表となってW杯に出場する」という言葉を叶える時が来たのだ。
 W杯一次予選で、知良は9ゴールを挙げ、日本代表を牽引した。続く、最終予選では、これまで歯が立たなかった韓国に勝利。初めてのW杯出場が手の届くところに来ていた。
 ところが——。
 勝てば、最終予選最終戦のイラク戦。日本代表は1点リードしながら、ロスタイムで失点。日本代表はアメリカ大会出場権を逃すことになった。
 いわゆるドーハの悲劇である。
 この時も納谷は、ドーハまで足を運んでいた。
(年齢的に考えれば、知良は次の大会もある)
 納谷はそう考えるしかなかった。しかし、彼の“余命”は確実に少なくなっていた。
 納谷の腹部は水がたまり、膨らんでいた。まるで妊娠しているかのようだった。
 肝硬変の診療で一番進んでいるのがアメリカだった。日本では治療が不可能でもアメリカに行けば治るかもしれない。周囲の強い勧めでミネソタにある病院に一週間入院した。
「肝硬変が進んでいます。余命はあと1年ですね」
 検査結果を見て、医師はきっぱり言った。やはりそうか、ここでも治らない。納谷は下を向いた。
 医師が続けた。
「一つだけ方法があります」


(続く)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入り著書多数。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。2010年2月1日『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)を刊行、さらに4月『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)を刊行。






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