「大学に入学してからは、本当にあっという間でした。もう、最後がきてしまったという感じです」
 宇高幸治が甲子園で涙を流したあの夏から、早くも4年が経とうとしている。現在、早稲田大学硬式野球部に所属している彼は今年、最終学年を迎えた。1年の時には同大が33年ぶりに大学日本選手権を制し、日本一となった。だが、当時控えだった宇高が打席に立つことはなかった。その後、レギュラーの座を不動のものとしてからは、リーグ優勝こそあるものの、日本一には到達していない。今春はリーグ王座決定戦で慶応大に惜しくも敗れ、涙をのんだ。その雪辱を果たすチャンスは、もう1度きりしかない。
 高校3年時には甲子園で2本塁打を含む8安打を放ち、天性の打撃センスを遺憾なく披露した宇高は当然、プロからも注目されていた。しかし、彼はプロ志望届は出さず、早々と大学進学を表明していた。
「たまたまちょっと活躍したくらいでいけるほど、プロは甘い世界ではないと思ったんです。それに、もし高卒でもプロで活躍できるなら、大学に行ってからでも活躍できるはずだと。だから、まずは大学で力をつけようと思いました」

 大学での練習でまず最初に驚いたことは基本練習を重要視していることだった。
「大学生は基本がしっかりしているからこそ、ソツがなく、うまいんだとわかったんです」
 基本の重要性は父親からの指導によって宇高にもよくわかっていたはずだった。だが、プロ選手を何人も輩出しているほどの名門校でさえも基本重視の練習をしていること知った彼は、改めて父親の教えが間違っていなかったことを実感した。

 入学前からキャンプに帯同したことからも、彼への期待度がどれだけ高いものだったかは容易に想像ができるだろう。実際、入学早々、ベンチ入りを果たした宇高は代打や守備固めで試合に出場した。だが、結局その年はレギュラーをつかむことはできなかった。
「自分自身はやれると思っていましたし、1年目からレギュラーをとるつもりでした。でも、4年生とは体の大きさも違いましたし、何より経験の差を感じました」

 2年になり、三塁手のポジションをつかんだ宇高はすぐに結果を残した。春はリーグ3位となる打率3割7分5厘の高打率でベストナイン入り。秋も打率2割7分7厘で春に続くベストナインに選出され、チームの完全優勝に大きく貢献した。
 ところが、翌年は突然のスランプに苦しんだ。何を変えたわけでもない。もちろん、故障などもなかった。しかし、なかなか調子は上がってこなかった。

 父親は、当時の息子の様子をこう語った。
「2年の時に結果が出たものだから、無意識に『こんなものか』という甘い気持ちが出てきていたんでしょうね。結果を出したいっていう焦りもあって、負のサイクルにはまってしまったという感じでした」

 宇高自身もまた、3年時のスランプの要因は気持ちの変化だったと分析している。
「2年のときは、まだ上にたくさん先輩がいて、自分のことだけに集中することができました。もう、それこそがむしゃらにやっていればよかったんです。特に欲もなかったですしね。でも、3年になってレギュラーがほとんど自分たちの学年だったこともあり、『自分たちがやらなくちゃ』という責任感を感じるようになりました。それと2年の時に得た自信が欲になったんでしょうね。『いいところをみせたい』と。それでボールを見すぎるようになってしまいました。オヤジにも『もうちょっといいボールがくるだろうって、見すぎだ。とにかくもっと振っていけ』と言われていました」

 復調のきっかけとなったのは、秋季リーグでの早慶戦だった。1戦目、3打数無安打に終わった宇高は、翌日の2戦目はその秋、初めてスタメンから外された。しかし、終盤に代打で出場すると、1カ月以上ぶりとなるタイムリーを放った。その前から少しずつヒットが出始めていた宇高は、そのタイムリーで気持ちがようやく吹っ切れたように感じたという。

 手応えをつかんだ早慶戦
 
 今春、開幕前の米国遠征では全米19位の強豪校カリフォルニア大ロサンゼルス校のピッチャーからチームでただ一人、ホームランを放ってみせた。彼自身、最終年を迎え、今季にかける思いを強くするとともに、自信を深めていたことだろう。だが、アクシデントが起こったのはリーグ戦の開幕前日のことだった。練習で脇腹を肉離れしてしまったのだ。もともとケガに強い宇高にとって、大学では初めてといってもいいケガだった。

 ケガに焦りは禁物である。應武篤良監督と相談し、試合に出場はせず、治療を優先することにした。しかし、チーム事情が変わったのは第3週での明治大戦だった。なんと3年生エース野村祐輔にチームが完封負けを喫したのだ。早大が放ったヒットはわずか2本。まさに完敗の一言に尽きる試合だった。優勝するためには、これ以上傷を深くするわけにはいかない。翌日、應武監督は宇高をスタメンに起用した。チームは負けたものの、彼自身は初回、先制の2点タイムリーを放ち、指揮官の期待に見事応えた。この一打で指揮官の気持ちはかたまったことだろう。「やはりこの男を外すことはできない」。その後も宇高はスタメンで出場し続けた。その甲斐あって、チームはその後、白星を積み重ね、慶大との優勝決定戦に臨んだ。

 初戦を落とした早大は第2戦、4−2で接戦を制した。試合を決めたのは宇高の一打だった。初回、2死満塁の場面、宇高は150キロのストレートをレフト線に打ち返し、走者一掃となるタイムリー二塁打を放ってみせたのだ。
「これまでの野球人生で一番、嬉しかったです」
 試合後のインタビュー、宇高はそう答えた。
「あの日、家族や親戚がみんな見に来てくれていたんです。前日の夜に一緒にご飯を食べたのですが、『明日は、頑張れよ』と言われていて……。そしたらいきなり初回にチャンスがまわってきて、タイムリーを打つことができた。二塁ベース上でふっとスタンドを見たら、家族がすごく喜んでいるのが見えたんですよ。それが本当に嬉しくて……」

 しかし、翌日の最終戦、歓喜の声をあげたのは慶大だった。結局、ケガをおしてまで出場し続けた宇高だったが、リーグ優勝、日本一への目標を達成させることはできなかった。だが、この日、宇高は秋に向けての手応えをつかんでいた。大学入学以来、公式戦では一度も打っていなかったホームランを放ったのだ。
「ホームランへのこだわりは特にないんです。でも、やっぱり久々だったので嬉しかったですね。自分としては詰まった当たりだと思っていたのですが、押し込めた感触がありました」

 大学での最後の戦いとなる秋季リーグ開幕まで、あと約1カ月半。宇高は今、基礎体力の強化に力を注いでいる。厳しいトレーニングを自らに課すことは、決して簡単なことではない。宇高にも逃げ出したくなることもあるという。だが、彼は決して逃げようとはしない。
「人間ですから、やっぱりきつくてやりたくないときもあります。でも、逃げたら終わりですから。オヤジがよく言うんですけど、神様は見ていますからね」

 宇高にとっての精神的支柱は、やはり父親の存在だ。父親はそんな息子を誇りに思っている。
「幸治にはいろいろと言ってしまうのですが、言うは易しでね(笑)。正直、今ではこちらが教えられることもあるんです。本当によく頑張っていると思いますよ。でもね、本人には一度も褒めたことはありません。どうしても、もっと上を目指してほしい、という気持ちになってしまって、『もっとやらんかい』となってしまうんです(笑)」

 宇高もまた、父親の気持ちはわかっている。
「これまでオヤジに追いつきたい、褒められたいという思いでやってきました。でも、もし実際に褒められてしまったら、なんだか自分がそれで終わりのような気がするかもしれないので、褒められないほうがいいのかもしれません(笑)」

 もちろん、目指すはプロの世界。そのためにもこの秋は全身全霊をかけてプレーするつもりだ。「試合がないこの時期に差がつく」と引き締まった表情には、22歳の確固たる決意が垣間見えた。早大生・宇高幸治にとっての最後の戦いはもう既に始まっている。
 
(おわり)

宇高幸治(うだか・こうじ)プロフィール>
1988年4月5日、愛媛県今治市出身。小学2年から日吉少年野球クラブで野球を始めた。今治西高では1年夏からベンチ入りし、同年秋より4番に抜擢される。3年時にはキャプテンとしてチームを牽引。夏の甲子園ではベスト16入りを果たし、自身も2本のホームランを放った。高校通算本塁打数は52本。進学した早稲田大では1年春からベンチ入りし、レギュラーに定着した2年春、秋にはベストナインに選出された。今春、慶應大との優勝決定戦では公式戦初ホームランを放った。







(斎藤寿子)
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