あの南アフリカでの興奮から、早いものでもう1カ月が経つ。サムライブルーのユニホームに身をまとって戦った選手たちも、ある者は新天地に飛び、また、ある者は所属クラブに戻り、日々のリーグ戦に臨んでいる。非日常の世界から日常の世界に戻ったのは、プレーヤーばかりではない。松山市にある整形外科「つばさクリニック」の院長、森孝久もそのひとりだ。森は今大会の日本代表チームドクターとしてベスト16入りを陰で支えた。
 岡田監督が方針転換した夜

「韓国戦で負けた時はさすがにヤバイ雰囲気でしたよね」
 それはグループリーグ突破が決定し、日本中が沸いた6月24日のデンマーク戦からさかのぼること、わずか1カ月前のことだった。5月24日、日本代表はW杯前の国内最後のテストマッチとなる韓国戦に0−2で敗れた。攻守に精彩を欠く内容にサポーターの期待は大きく裏切られた。試合後には、岡田武史監督が口頭ながら犬飼基昭サッカー協会会長(当時)に“進退伺”を行う騒動も勃発した。チーム状態は、まさにどん底だった。

 翌日の練習前、指揮官は選手、スタッフ全員を集めてこう言った。「ああいう(進退に関する)記事が出たけれども、僕が選んだ君たちを途中で放り出したりはしない。自分から辞めることはしない。記事のことは気にしないでくれ」。さらに進退伺は「ジョーク」とも言った。無責任な言動とメディアはさらに批判を強めた。

 オシムジャパン時代の2006年10月より、代表のドクターを担当してきた森にとって、岡田監督が自らの思いを率直に語ったことで印象に残っている試合がある。08年3月、W杯アジア3次予選、アウェーでのバーレン戦だ。前年の11月、イビチャ・オシム前監督が病に倒れ、岡田監督は緊急登板の形で代表の指揮を執ることになる。しかし、2月の東アジア選手権では北朝鮮、韓国と引き分けて優勝を逃すなど、なかなか結果は出なかった。

 そして敵地に乗り込んだバーレーン戦。日本は攻め手に欠き、押し込まれる場面が続く。耐え続けていた青い堤防は後半、ミスから崩れた。0−1。オシムから岡田体制になっての初黒星だった。森にとっても、ドクターとしてベンチに入ったアウェーゲームで初めて90分間で負けた。それだけでも苦い記憶として残る一戦だった。

 試合後、ホテルに戻り、全員で食事をとった。中東特有の薄暗い部屋の中、敗戦の沈滞ムードはさらに増していた。その時だ。食事を終えた岡田監督はスッと立ち上がった。「これからは自分のやり方で行く!」。それはオシム流からの訣別宣言だった。事実、ここからオシムジャパンで常連だった代表メンバーが外れ、岡田色が鮮明になっていく。チームとしての大きな転換点がそこにあった。

 練習環境が生んだ一体感

 そして結果的には、あの岡田の発言が注目を集めた韓国戦も日本にとっての大きな分岐点となった。スイス・ザースフェーでの合宿2日目(5月27日)、危機感を抱いたキャプテンの川口能活が音頭をとり、選手だけのミーティングが実施されたのだ。
「メディアでは、あれをきっかけに選手たちがまとまったという報道もありますけど、厳密に言えばちょっと違う。その日のミーティングでは戦術面での考え方の違いが出て話がまとまらなかったみたいなんです」
 森はそう振り返る。遠藤保仁などは「(ミーティングを)やってよかったのかな」と漏らすほど、その時点でも雰囲気が良くなっていたわけではなかった。

 ただ、森はザースフェーの環境は選手同士のコミュニケーションを深めるのに役立ったとみている。
「ホテルから練習場までは歩いていける距離なので、選手たちは移動中に自然とおしゃべりをするようになったんです。日本から離れたことで雑音からもシャットアウトされたのも大きかった。マスコミの人たちと話をするのも練習後のミックスゾーンだけでしたから。選手、スタッフしかいないという環境は非常に良かったと思います」
 それは南アフリカでの合宿地ジョージでも同様だった。前回のドイツ大会で、日本は主力選手の間で内部対立が生じ、チームがひとつにまとまらなかった。4年前とは異なる空気がジャパンの中には生まれつつあった。

 チームドクターにとって最大のピンチは、スイス合宿の最後に起きた。6月4日、コートジボワール戦。後半21分、DF今野泰幸が相手FWから激しいスライディングを後ろから受け、倒された。右ひざを押さえてうずくまったまま立ち上がれない。嫌な予感がピッチに漂った。担架で運ばれた今野を森はロッカーで出迎えた。彼は顔を手で覆い、号泣している。ケガの痛みはもちろん、せっかくのW杯出場が叶わなくなるかもしれない悔しさ、やるせなさが涙となったのだろう。「あの野郎! 許さん!」。持っていきようのない怒りを部屋の中でぶつけていた。

 ただならぬ状況に森も最悪の事態を覚悟していた。選手の入れ替えは初戦の24時間前まで認められるが、バックアップメンバーを呼ぶなら早めの決断が必要だ。慎重に今野のひざの状態をチェックした。「あれ?」。森は泣き崩れる今野に優しく声をかけた。「今ちゃん、そんなに悪くないよ」。右ひざ内側側副靭帯は痛めているものの、半月板や十字靭帯への損傷はない。プレーは2、3週間で可能。それが同じくチームに帯同していた清水邦明ドクターとの一致した見解だった。「監督、1試合目(カメルーン戦)は分からないけど、2試合目(オランダ戦)は出られます」。その報告に岡田監督は「本当に大丈夫なの?」と驚きを隠さなかった。

 5日後、今野は選手たちに交じって元気にボールを蹴っていた。翌日にはジンバブエとの練習試合にも出場している。整形外科を専門とする清水と森の適切な処置により、岡田ジャパンは大事な守りの選手を欠くことなく本番に突入できた。「今ちゃん、痛がりすぎやろ」。あまりにも早い回復ぶりに周囲の選手たちは、そう言って冷やかすほどだった。結局、出場機会はわずかだったものの、今野は帰国会見で「あつまれー!!」と田中マルクス闘莉王のモノマネを披露。 ムードメーカーとしても“役割”を果たした。

「スペインと対戦したかった」

 アクシデントを乗り越え、最悪の状態から抜け出したチームを変えたのは、やはり白星だった。グループリーグ初戦、カメルーン戦での勝利。相手の猛攻に耐えての勝ち点3は選手たちに自信を植えつけた。日本を離れて雰囲気は悪くなかったとはいえ、大会直前のテストマッチは3戦全敗。「本番と含めて6連敗で終わるんじゃないか」。そんな周りの冷めた見方を選手たちも少なからず感じていた。ひとつの勝ちを境にサムライたちは一気に躍動し始める。オランダ戦に敗れたものの、デンマーク戦には3得点を挙げる快勝。「これは僕が携わってきた代表の試合でも印象に残るものになりましたね」。国外開催では初の決勝トーナメント進出。森も代表メンバー、スタッフとともに喜びを分かち合った。

 そして決勝トーナメント、パラグアイ戦。森はスタンドの1番前で日本代表の戦いぶりを見つめていた。試合は延長戦を終えても両国に得点が入らず、PK戦に突入する。ここまで来れば、もう気持ちしかない。森はピッチに降りると、他のスタッフたちとともに選手たちの円陣に加わり、思いを託した。

 だが、結果は無情なものだった。日本の3人目、駒野友一のキックはクロスバーを越え、リードを許す。最後は5人全員がゴールを決めたパラグアイの前に準々決勝進出を阻まれた。
「ご存知の通り、国際ルール上は引き分けでパラグアイには負けていない。ここまで来たらスペインとやりたかったですね」
 森には代表に携わって知る限り、駒野が練習も含めてPKを外した記憶がない。前日練習でもしっかり枠に決めていた。岡田監督がそれを見て3番目のキッカーに指名した。最後の5人目は闘莉王が蹴る予定だったという。

「まぁ、しょうがないですよ」
 そう自らを納得させるようにつぶやきながらも、森は「スペインとベスト8で対戦したかった」ともう一度、繰り返した。
「勝ってもヤット(遠藤)と長友(佑都)がイエローカードの累積で出られなかった。特にヤットが出られないと中盤の部分でまったく違う戦い方を強いられたでしょう。それでもやってみたかった……」
 振り返れば振り返るほど、思いはあふれてくる。それこそが選手たちとともに彼らスタッフも戦っていた何よりの証だった。

(第2回へつづく)

森孝久(もり・たかひさ)プロフィール>
1963年7月16日、愛媛県生まれ。松山東高時代にサッカーで右大腿直筋を断裂したことをきっかけに整形外科医を志す。愛媛大学医学部に入学し、同附属病院で91年に医師生活をスタート。93年から愛媛FCユースのチームドクターとしてサッカーに携わる。01年には愛媛FCトップチームのドクターに就任し、翌年にはユニバーシアード日本代表のチームドクターに。02年日韓W杯では横浜国際総合競技場にてスタジアムの医務を担当する。06年10月より日本代表のドクターに抜擢され、イビチャ・オシム、岡田武史両監督の下で代表チームをサポートした。07年9月には松山市に整形外科つばさクリニックを開院。院長を務める。
>>つばさクリニックのホームページはこちら



(石田洋之)
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