ミネソタの病院で医師から、納谷は余命一年と告げられた。
 ただし――生き続けるには一つだけ方法があると付け加えた。
「肝臓を移植することです」
「それで生きられるのか?」
 納谷は通訳に尋ねた。

(写真:1950年ブラジルW杯決勝、ブラジル対ウルグアイの試合には二十万人以上の観客が詰めかけたという。歴史あるスタジアムである)
 医師の説明によると、手術をするには肝臓を提供する人間が必要である。提供者がいつ現れるかはわからない。半年、あるいは一年ほど病院の近くで待機しなければならないだろう。肝臓が見つかり、手術をしたとしても、成功確率は25パーセント。
 アメリカの滞在費、入院費を含めれば、数億円の出費となる。出費のことよりも、納谷は成功の確率が25パーセントしかないことが気になった。
(四分の一の可能性か……)
 納谷は、日本に帰国すると、掛かり付けの医師に相談した。
――手術後一日生きていても成功の部類に入る。つまり手術以降、普通の生活に戻れる可能性はもっと低いはず。やめた方がいいです。お金の無駄です。
 このとき、肝臓移植は日本では行われていなかった。
 念のため、納谷はブラジルの医師にも相談した。彼は逆の意見だった。
――可能性があるならば、手術をした方がいい。
 考えた末、納谷は手術を受けることにした。ただ、手術する病院は、ロサンゼルスを選んだ。ロスでもサッカー留学のビジネスを始めようとしていたのだ。長期滞在する意味があるだろうと、納谷は考えたのだ。
 ぼくが初めて会ったとき、彼が口にしていた「手術」とは、この肝臓移植だったのだ。

 ロサンゼルス近郊で待機する家を購入するため、三浦知良は資金を提供した。
 この時、息子の知良もまた、厳しい戦いに臨んでいた。
 知良はブラジル時代、自分の目標は二つあると答えている。
「マラカナンでプレーすること、もう一つは日本代表としてW杯に出場すること」
 マラカナンは、リオ・デ・ジャネイロにあるブラジルサッカーの聖地ともいえるスタジアムである。
 サントス、キンゼ・ジャウー、クリチーバと知良はブラジル各地でプレーした。サンパウロ近郊のクラブが多かったこともあり、リオのマラカナンでは結局一度も試合をしないまま日本に引き揚げていた。
 もう一つの夢、W杯出場まではあと一歩のところに迫っていた。
 98年W杯出場権のアジア枠は3.5。最終予選に進んだ10チームが二組に分けられ、各組首位に加えて、2位同士の対戦の勝者が第三代表と決まった。そこで敗れた場合は、オセアニア1位と大陸間プレーオフに臨むことになっていた。
 日本は韓国やUAEと同じB組に入った。日本は苦戦が続き、加茂監督が解任された。それでも終盤に韓国に勝利するなどして、韓国に続く2位に滑り込んだ。
 そして、A組の2位、イランと第三代表を掛けて、マレーシアのジョホールバルで戦うことになったのだ。
 この試合で、知良は、中山雅史と共にフォワードで先発している。試合は90分で2対2。延長戦で日本が途中から入った岡野雅行のゴールでW杯初出場を決めた。

 このジョホールバルの時、肝臓提供者が見つかり、納谷は手術を行った。10時間に及ぶ大手術だった。
 手術は成功した。
 容体が落ち着いたとき、W杯出場を決めたことを知らされた。
「これで俺たち親子の夢が叶う。知良が無理をしてきた甲斐があった」と納谷は思った。
 術後の経過も良好だった。
 ただ、日本から届く新聞を読んでいると、嫌な予感がしていた。
 初めてのW杯出場――日本全体が、サッカーの熱気に湧いていた。次は誰がW杯の代表に選ばれるか、だった。
 知良はもう代表にいらないという論調が多かった。
 知良のプレーが以前と比べて精彩を欠いていたことは間違いない。アジア最終予選で、初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたものの、その後の試合では1ゴールも挙げられなかった。国立競技場でのUAE戦後には、サポーターから厳しい罵声を浴びせられたこともあった。
(写真:98年W杯最終予選、二位争いをするUAEを国立競技場に迎えた。呂比須が先制ゴールを挙げるも追いつかれ引き分け、一部の観客が暴れる騒ぎとなった)

 知良は怪我を抱えて、だましだましやっている状態だった。試合を見た納谷は、「無理をしないで休んだほうがええ」と知良に電話したこともあったほどだった。少し休めば体調は戻るはずだった。
 しかし、知良は「加茂さんには世話になっている。力になりたいんだ」と返した。
 自分がチームから必要とされるなら、と試合に出続けていたのだ。
 このとき、日本代表自体が若返りつつあった。
 中盤は、最終予選途中から加わった中田英寿が中心となっていた。中田は、速攻遅攻で分けるならば、速攻を得意とした。
 W杯では格上の相手と対戦することになる。守備を固めて速攻という形にならざるをえない。中田のパスに合わせるには、足の速いフォワードが適任だった。足の遅い知良にとって不利な状況だった。
 中田のパスに最も慣れているフォワードは、同年代の城彰二だった。彼らはアトランタ五輪に出場し、若いが国際経験があった。
 ジョホールバルで得点を決めた俊足の岡野、決定力のある中山雅史、さらにブラジルから帰化した、呂比須ワグナーがいた。知良は当落選上だったのだ。
 W杯が近づき、日本代表はスイスで合宿を行った。そして発表された最終メンバーの中には、知良の名前はなかった。
 
 納谷の体調は、順調に回復していた。納谷は、自分と知良は不思議な関係だと思った。どちらかが良くなれば、片方が悪くなる――。
 知良は、「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」と語りチームを後にした。そして、知良のいない日本代表は初めてのW杯を迎えた。


(続く)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入り著書多数。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。2010年2月1日『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)を刊行、さらに4月『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)を刊行。






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