「もうちょっと違う治療があるはず。絶対、治る方法があるんじゃないか」
 右大腿直筋断裂で大好きなサッカーを続けられなくなった森には大きな疑問が生じていた。それは消えるどころか、ますます頭の中で膨らんでいく。
「自分で治せるようになりたい」
 整形外科医という新たな夢が生まれたのはその時だ。高校卒業後、2年間の浪人生活を経て、地元の愛媛大学医学部へ。27歳で同付属病院の研修医としてドクターとしての第一歩を踏み出した。
(写真:オシム前監督との唯一のツーショット)
 スポーツ医学は古くて新しい医療分野である。オリンピアが開かれた古代ギリシアには選手たちをケアする専門家が存在したといわれている。スポーツ医学という言葉こそなかったものの、人が体を動かす営みを始めると同時に、負傷の治療、コンディションの維持といった役割も必然的に生まれていった。

 しかし、これらがスポーツ医学として体系化されていくのは20世紀に入ってから。オリンピックで専門の医学チームが設置されたのは、1972年のミュンヘン大会が最初とされている。日本では75年に日本整形外科スポーツ医学会、89年に日本スポーツ臨床医学会が誕生している。その意味では森が整形外科医になった90年代初頭、まだまだスポーツを専門とするドクターは珍しかった。

「スポーツをやってみたいです」
 そう森が希望を告げると、周囲からは失笑された。
「そんなん誰に教わるんや。どこでスキルを上げるんや」
 確かに当時の愛媛にはプロのスポーツクラブがなかった。アスリートを診る機会は極めて限られている。スポーツを専門にするといってもあてはなかった。

 転機は日韓W杯

 ただ、強い信念を持つ人間には、どこかしらでチャンスが巡ってくるものだ。医師になって3年目の93年、地元に愛媛FCのユースチームが立ち上がった。ちょうど同じ年、Jリーグが開幕しており、愛媛でもサッカー熱は高まっていた。森はチームドクターとして、練習から子供たちに付き合い、負傷への対応や水分摂取の指導など、現場で経験を積んだ。

 さらにはスポーツを主にするドクターもいなかったため、若手ながら愛媛県サッカー協会の医事委員長も任される。
「“仕事は天皇杯の試合がある時にスタジアムにいるくらいでほとんどない。だからオマエがやれ”と言われて引き受けたんです(笑)」
 ところが、この委員長就任が森の可能性を広げる結果になった。日本サッカー協会のサッカードクターセミナーに出席できたからだ。そこで培った人脈が、後の仕事に大きく道を拓くことになる。

 転機は2002年にやってきた。この年は言わずと知れた日韓W杯イヤー。森はサッカー協会スポーツ医学委員会の青木治人委員長から「W杯の仕事を手伝ってくれないか」と誘われる。それは願ってもない話だった。だが、実際に申し出に応えるには、さまざまな困難があった。まずは勤務先の問題だ、愛媛にいたままではW杯関連の業務をこなせないため、拠点を移す必要があった。受け入れ先は青木委員長が院長を務める川崎市の聖マリアンナ医科大学病院。
「でも国立から私立への“出向”なんて認められたことがないと言われまして……」
 森は愛媛大医学部医局に籍を移したまま、研究生として1年間、川崎に赴くことになる。肩書は研究生だから、収入もそれまでの3分の1以下に減った。

 さらに仕事上の問題もあった。当時の森は愛媛大医学部医局員として市立宇和島病院で勤務しており、多忙を極めていた。
「お正月にも帰れないくらいでしたからね。僕が抜けると相当大変なことになることは予想できました。でも上司の先生が“オマエ、行ってこい”と快く送り出していただいたんです」
 その背中を押す一言が、とてもありがたかったと森は振り返る。
「2002年にそのまま愛媛に残っていたら、今はなかったでしょうね。代表のドクターになることもなかったでしょうし、開業もしていなかったと思います」

 W杯では横浜国際総合競技場で観客用の救護室を担当した。さらにはユニバーシアードのサッカー日本代表チームドクターの仕事も舞い込んでくる。森を誘ったのは、長年、大学サッカーを担当していた荒川正一氏。これもサッカードクターセミナーでの出会いが縁だった。
「最初はひとりだとしんどいから、一緒にやってほしいという話だったんです。それで“海外にも行ってくれ”と遠征にも帯同していたら、いつも間にかチーフになっていた(笑)」
 ユニバーシアードの仕事は愛媛に戻ってからも続き、03年大邱(韓国)大会、05年イズミル(トルコ)大会と日本代表の連覇を裏で支えた。

 まさかのA代表へ

「大邱で優勝した後にもう、この仕事は終わりだろうと思って、次期監督の乾真寛先生(福岡大)を激励する意味で“今までの優勝は内弁慶だから、次のトルコで勝ってこそ本物です”なんて言っちゃったんですね。それまで日本は3回ユニバーシアードを制していたのですが、全て開催地はアジア(95年福岡、01年北京、03年大邱)。トルコだとヨーロッパにも近いので、イタリアとかも本気になって出てくると思ったんですよ。そしたら乾先生から“そんなこと言うなら続けてくれ”と言われました(苦笑)」
 チームドクターとしてのキャリアを着々と積み重ねていた森だったが、その一方では葛藤も抱えていた。遠征や大会で勤務から外れれば、その分、周囲には迷惑をかける。先輩や同僚の理解なくして、代表の仕事はできなかった。

 自分で責任をとれる立場になりたい。そう感じた森は独立開業を決意する。「サッカー関連の仕事は、クリニックが軌道に乗って10年後くらいに再開すればいいかなと考えていました」。退職を決意し、新しく開業するクリニックの建設地も決まった頃、思わぬ知らせが飛び込んでくる。それがA代表のドクター就任の打診だった。06年のドイツW杯直後のことである。

「なぜ僕に話が来たのか、いまだにわかりません。確かに青木委員長とのつながりはありましたが、順番から考えても、自分にはしばらく目がないと思っていましたから」
 しかし、千載一遇の機会を断る理由は何もない。イビチャ・オシム新監督の下、始動した日本代表で、森は念願のトップ選手を診ることになる。

 初めて代表のベンチに入ったのは06年10月。横浜で開催されたガーナ戦だった。オシムらスタッフと並んで君が代を聞くと気持ちは高ぶった。ただ、思ったより緊張はしなかった。
「ユニバーシアードでドクターをしていた頃から、不思議なくらい試合であがることはないんです。それまでにやるべきことはやったという気持ちがそうさせるのかもしれませんね」 
 程よい緊張は必要だが、度をすぎればパフォーマンスは下がる。これはスポーツの世界に限った話ではない。それから4年間、オシムジャパン、岡田ジャパンの中で、森は自らに与えられたミッションに平常心で臨み続けた。

(最終回へつづく)
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森孝久(もり・たかひさ)プロフィール>
1963年7月16日、愛媛県生まれ。松山東高時代にサッカーで右大腿直筋を断裂したことをきっかけに整形外科医を志す。愛媛大学医学部に入学し、同附属病院で91年に医師生活をスタート。93年から愛媛FCユースのチームドクターとしてサッカーに携わる。01年には愛媛FCトップチームのドクターに就任し、翌年にはユニバーシアード日本代表のチームドクターに。02年日韓W杯では横浜国際総合競技場にてスタジアムの医務を担当する。06年10月より日本代表のドクターに抜擢され、イビチャ・オシム、岡田武史両監督の下で代表チームをサポートした。07年9月には松山市に整形外科つばさクリニックを開院。院長を務める。
>>つばさクリニックのホームページはこちら



(石田洋之)
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