1998年6月10日、W杯フランス大会が開幕した。初戦は前回優勝国のブラジルがスコットランドと対戦した。
 この頃、南米大陸の全ての国を回って、ぼくはサンパウロに戻ってきていた。しばらく空けていたサンパウロのアパートが懐かしく感じられた。

(写真:サンパウロに帰ってくるとほっとした。写真はアパートの前にあったペットショップ)
 サンパウロでは開幕の一週間以上前から、祭り独特の浮かれた空気が流れていた。とくに問屋街は人でごった返していた。ブラジル人はみんなで集まって試合を見る習癖がある。ブラジル代表のユニフォームをはじめとした応援グッズは必須だった。品切れになったのか、過去のユニフォームまで店頭に並んでいた。
 試合が始まると、街の交通が止まった。開始4分、ブラジル代表のセザール・サンパイオが先制点を挙げると、あちらこちらで、花火を打ち上げる音と歓声が聞こえた。
 ぼくが日本を出てから1年が過ぎていた。そろそろ日本に戻らなければならなかった。
 ベネズエラやコロンビアから南米最南端アルゼンチンのウシュアイアまで回った。その間も、アパートの部屋は借りたままだった。仏領ギアナ、ガイアナ、スリナム――あまり人がいかない場所に行き、サンパウロのアパートにいたのはのべ半年もない。それでも、離れがたい気持ちになっていた。
 荷物を整理していると、納谷宣雄から連絡が入った。

「日本に帰るんだろ? 帰りにロスに寄れよ」
 納谷は、肝臓移植の手術後、ロサンゼルスでリハビリをしていた。
 彼には1年間、アパートを無料同然で借りていた恩義がある。なにより、手術後の容体を心配していたので、顔を見たかった。
 しかし――。
 丁度、日本代表の試合があるから一緒に見ようじゃないかという誘いには素直に頷けなかった。
 ブラジルで、ぼくは納谷と三浦知良親子が苦労した跡を感じた。
 三浦は身体が大きいわけでも足が速いわけでもない。彼を助けたのは、子どもの頃から父親に仕込まれた足技、そして努力だった。
 チーム練習の前後、一人で黙々と練習した。一日千回以上の腹筋を自らに課していた時期もあったと聞いた。彼は「練習していないと怖いんだ」と言っていたという。
 しかし、ブラジルは努力だけで成功できる世界ではない。
 此処には才能ある若手選手が溢れている。その中で、日本人選手がブラジル人を押しのけて試合に出るのは並大抵なことではない。
 納谷は息子の試合について回り、起用してもらうように、有形無形の圧力を掛けた。納谷はブラジル人選手や監督を日本に紹介する代理人でもあった。当時、日本のサッカー界は金銭的に恵まれており、世界中から才能を集めていた。給料未払い、遅配が当たり前のブラジル人にとって、日本に行くことは憧れだった。納谷は、自分の背後に「日本」をちらつかせた。
 納谷はポルトガル語がそれほど堪能ではない。ただ、交渉の勘所を掴む能力と押しの強さがあった。この時でさえも、ブラジルのサッカー関係者の間では、三浦よりも納谷の方が名前が知られていたほどだ。納谷の力が、三浦の大きな後押しになった。
 もっとも、いくら後押しをしても、ピッチの中で結果を残せない選手は多い。三浦は数少ない機会を物にして、世界で最も競争の激しいブラジルサッカー界を勝ち抜くことができた。ある時期までは、三浦知良というサッカー選手は、納谷の?創造物?と言ってもよかった。
 その三浦が、フランスW杯直前にメンバーから漏れた。W杯に思い入れの深い、納谷と一緒に、息子のいない日本代表の試合を見るのは、気が進まなかった。
(写真:納谷のブラジル事務所。壁には三浦知良のポスターがパネルとなって貼ってあった)

 ロサンゼルス行きのJAL便は、サンパウロを深夜に出発する。離陸してしばらくすると機内の電灯が消えたので、手元のライトを点けた。
 サンパウロのアパートには日本から何冊ものスポーツ雑誌が送られてきていた。
 日本は初めてのワールドカップ出場で異常な盛り上がりを見せていた。W杯出場は素晴らしい結果である。ただ、大会で結果を出さなければ何も意味はない。選手を褒め称える甘口の記事、監督の岡田の手腕に疑問を呈する厳しい記事の両方に違和感があった。メディアも初めてのワールドカップで浮き足立っていた。
 W杯メンバーに三浦がいないことは寂しかった。このとき、ぼくは三浦と面識はなかった。ただ、ブラジルで彼の話を聞いていると、自然と応援したい気持ちになっていた。
 三浦が代表選考から落ちたと聞いたとき、どうして、あれほどまでにW杯を望んでいた男が外されなければならないのか、理解できなかった。
 納谷はぼく以上に怒っていることだろう。そんなことを考えているうちに、うとうと眠っていた。

 ロサンゼルスの空港に着いたのは朝方だった。乾いた空気が肌に心地よかった。空港まで、納谷と彼のアメリカ事務所で働く日本人が迎えに来てくれていた。
「元気だったか?」
 納谷は手を差し出した。
「元気かどうか心配していたのはぼくの方ですよ」
 ぼくの言葉に、そうだなと納谷は笑った。まだ本調子ではないようだが、顔色は良かった。
「ロマーリオも外れたな」
 ロマーリオもまた直前でブラジル代表から落ちていた。彼は九四年大会でブラジル代表を優勝に導いた。守備はしないが、得点は上げる選手である。ただ、規律に従わず、扱いづらいので指導陣から嫌われたのだと見られていた。ぼくはロマーリオのことが大好きで、彼の所属するフラメンゴがサンパウロに来たときは何度か見に行っていた。
「今回は結構いい選手が落ちてますよね」
 ぼくの言葉に、納谷は曖昧に頷いた。
「ところで、お前は日本代表はどれぐらいやると思う?」
「厳しいでしょうね。一勝もできないと思いますよ」
「そうだろうな」
 車は納谷の住む、白色を基調とした邸宅に到着した。ぼくは部屋に案内され、荷物を置いた。 
 日本代表にとっての初めてのワールドカップ、アルゼンチン戦はアメリカ時間では明日の4時半に始まる。試合を見るために、ぼくたちは早めに休むことにした。

 ブラジルとアメリカの時差でぼくはなかなか寝付けなかった。納谷がドアを叩く音で目が覚めた。
 一階の居間には大きなテレビがあり、すでに試合前の映像が流れていた。青々とした芝生が目に痛いほどだ。
 ぼくは顔を洗い、頭をすっきりさせた。
 ぼくはソファーに座り、納谷の顔をちらりと見た。
 アルゼンチンとの力の差は歴然としていた。日本が負けるのは間違いない。納谷はどんな風に感じるのだろうと、ちらりと横を見た。
 試合開始の笛が鳴った。
「ああ、駄目だ。もっと詰めないと」
 サッカーを見ていると思わず声が出る。明らかに日本代表の選手たちは動きが固かった。三浦のいない日本代表を正直、応援する気にならなかった。心の底では惨敗を望んでいたのかもしれない。厳しい言葉が口から出た。
「ええだ、それでええだ」
 ぼくは思わず、静岡弁で呟く納谷の顔を見た。
「城、行け」
 明らかに納谷は日本代表を応援していた。まるで、普通の試合を見ているかのようだった。
 三浦が落選したのは、城彰二がフォワードの柱と考えられたからだ。それにも関わらず、城に対する言葉は優しかった。
 部屋に朝日が差し込んできた。
 試合が終わると、0対1。日本は敗れた。
「納谷さん、日本代表のことを応援していましたね」
「そりゃそうだろ? 知良のことは息子だし、外れたことはそりゃ悔しいよ。でも、俺はその前からずっと日本代表のことを応援していた。日本がW杯に出ればいいなと思っていた。応援するのは当然だよ」
 変なことに気を回していたことを自分を恥じた。
 納谷には様々な噂もあり、誤解されやすい男だ。ただ、はっきりしているのは、この人は本当にサッカー、日本代表のことが好きだということだ。
 この親だからこそ、三浦知良という魂のある選手が生まれたのだと、つくづく思った。

(おわり)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入り著書多数。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。2010年2月1日『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)を刊行、さらに4月『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)を刊行。






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