多木裕史は両親ともに高校の体育教諭というスポーツ一家に生まれた。父親は坂出高校の野球部監督でもある。そんな環境に生まれ育った多木が野球への道を進んだのはごく自然なことだったに違いない。小学1年からソフトボールを始めた彼は、父親の「そろそろ」というすすめもあり、小学4年から軟式野球チームに入った。そこで彼は“親友”に出会った。
「初めて軟式野球のチームに入ったときは、監督が怖かった(笑)。でも、とてもいい方だったんです。土日だけでしたけど、しっかりと練習するチームで、勝利の喜びを味わえた。そこでの野球がなかったら、僕はここまで来れていないと思います」
 全国大会を狙うような強豪では決してなかったが、多木にとっては充実した3年間だった。

 チームに入ったばかりの頃、多木は主にサードを守っていたが、類稀な運動神経と器用さを買われてのことだろう、ピッチャーやキャッチャー、時にはショートに入ることもあった。小学6年になると、主にキャッチャーを任された。エースは同級生の大坂誠。地元では名の通ったピッチャーだった。剛腕というよりは技巧派だった彼の最大の武器はコントロール。多木が構えるミットに、ほぼ正確にボールが収まった。2人は「親友」と呼べる仲だった。

 中学では2人はそれぞれの学校の野球部に入ったため、敵として対戦することもしばしばあった。「うちの学校は大坂によくやられていて、ほとんど負けていたと思います。でも僕としては絶対に負けたくない、負けられないと思っていましたよ」。心を許せる友だからこその本音だった。

 中学卒業後、多木は父親が監督を務める坂出高校に進学した。「特に理由はなかった」と語る多木だが、まだ一度も甲子園に出場していない同校を選んだ背景には、やはり父親と一緒に甲子園に行きたいという気持ちがあったようだ。普段は練習で夜遅く帰宅する父親だが、週末は夕方に帰宅することが多かった。そんな時、多木は父親から指導してもらうことができた。「いつかはお父さんと甲子園へ」。父親からアドバイスを受けるたびに、そんな思いを募らせたのかもしれない。

 父親のほかに多木にはもう一人、一緒に甲子園を目指したい人がいた。親友の大坂だった。大坂もまた多木と同じ高校を熱望し、坂出高への進学を決めた。父親と親友――最も信頼する2人が揃い、多木にとってはこれ以上ない環境で高校野球がスタートした。

 2007年7月、坂出高は甲子園初出場まであと一歩のところまで迫っていた。第89回全国高校野球選手権大会香川県予選準決勝。対戦相手は尽誠学園だった。春6回、夏9回の甲子園出場を誇り、夏は2度ベスト4に進出している県内屈指の強豪校だ。その年も好投手3人を擁し、優勝候補にあげられていた。

 多木は2年生ながらショートのレギュラーとなっていた。大坂もまた、エースナンバーを背負い、大黒柱としてチームを牽引していた。
「負けて当然。とにかく全力でぶつかっていこう」
 多木はそんな気持ちで試合に臨んだ。

 ところが、フタを開けてみると、試合の主導権を握ったのは坂出高の方だった。1、2回に2点ずつを挙げてリードを奪うと、一度は尽誠学園に同点に追いつかれたものの、8回に大量3点を奪った。その裏、1点は返されたが、2点リードで最終回。流れは完全に坂出高にあった。「よし、これで次は決勝や!」。多木はベンチを飛び出し、意気揚々とショートのポジションへとついた。しかし、それから数分後、彼は野球の怖さを知ることになる。

(第3回につづく)

多木裕史(たき・ひろし)
1990年5月12日、香川県丸亀市生まれ。小学4年から軟式野球をはじめ、高校は父親が監督を務める坂出高に進学。遊撃手兼投手として活躍し、2年時には県大会準決勝に進出した。法政大では1年春からレギュラーを獲得し、打率3割4分1厘、チーム最多の12打点をマーク。ベストナインにも選ばれた。さらに全日本大学選手権では打率6割6分7厘をマークし、首位打者賞を獲得。同大14年ぶりの日本一に大きく貢献した。177センチ、74キロ。右投左打。








(斎藤寿子)
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