多木裕史には今でも忘れられない試合がある。4年前の夏、坂出高校は初の甲子園出場まであと2勝と迫っていた。準決勝の尽誠学園戦も2点リードで最終回を迎え、いよいよ決勝へというところまできていた。1点を返されたものの、なんとか2死までこぎつけた。決勝まであとアウト一つ。ところが、そのアウト一つが坂出にはあまりにも遠かった。
「ずっと一人で投げ続けてきましたから、もう限界にきていたと思います」
 多木はそう言って、当時、エースだった同級生の大坂誠の様子を語った。県内屈指の強豪校相手に、あとアウト3つで決勝というところまでこぎつけた坂出高だったが、9回裏にエース大坂が相手打線につかまった。先頭打者に二塁打を打たれると、犠飛で1死三塁に。代打にタイムリーを打たれて1点を失った。なんとか次打者を打ち取って2死一塁としたが、ヒットと四球で満塁となってしまう。内野陣がマウンド上に集まり、エースを励ました。だが、大坂にもう余力は残ってはいなかった。

「その試合は、気力だけで投げていました。疲労がたまっていて、正直投げられる状態ではなかったんです。試合前には多木が先発という話もありました。でも、3年生のキャプテンが『悔いを残したくないから』と言って、僕の登板を推してくれたんです。でも、ほとんど試合の内容を覚えていないくらい頭が朦朧としていました」と大坂は振り返った。

 マウンドに駆けつけた時、肩で激しく息をする大坂の姿を見て、多木は彼が限界に来ていることが手に取るようにわかった。しかし、多木を含め、チーム全員が他のピッチャーに代えようとは思っていなかった。「最後は大坂で」。エースに全てを委ね、各ポジションに散った。
「あと少しや。頑張れよ」「OKやで」
 多木の激励に大坂は笑顔で返した。しかし、大坂の球に勢いが戻ることはなかった。

「カキーン!」
 渇いた金属音とともに打球が三遊間の上空を飛んでいった。三塁ランナーが返り、同点となる。だが、この時点で多木も大坂も諦めてはいなかった。一気に三塁をまわり、サヨナラを狙う二塁ランナーをホームで殺せるかもしれないと思ったからだ。しかし、そのわずかな可能性も次の瞬間に潰えた。左翼手が打球をジャックルしてしまったのだ。ボールが返ってきたときにはもう二塁ランナーがホームベースを踏んだ後だった。
「野球は9回2死から」
 多木は身を持ってこの言葉の意味を知った。

 喜びを爆発させる相手チームとは裏腹に、その場で坂出高ナインは崩れ落ちた。その様子を見て大坂は「自分のせいで負けた」と自責の念にかられていた。茫然と立ち尽くす大坂に多木は何も言葉をかけることができなかった。結局、その日、2人はひと言も言葉を交わさないまま別れた。しかし、思いは一緒だった。
「次こそ、甲子園に行ってやる!」

 新チームのメンバーは個性の強い選手が多く、多木の言葉を借りれば、まとまりには欠けていた。だが、甲子園を狙えるだけのメンバーが揃っていた。多木には自信があった。
最後の夏、坂出高は初戦、10−0と5回コールド勝ちと幸先のよいスタートを切った。多木も高校通算36本目となるスリーランを放ち、調子の良さをうかがわせた。一方、大坂も4回を無安打に抑える好投を披露した。しかし、決して本調子ではなかった。春に痛めた手首が完治しておらず、自分のピッチングができていなかったのだ。

 そして迎えた3回戦。相手は2回戦で尽誠学園に快勝した高松商だった。初回、坂出高は相手ピッチャーの立ち上がりを攻め、3点を奪った。これで試合の主導権を握ったかに思われたが、3回裏に痛恨のミスが出るなど、一挙3点を失い、同点に追いつかれた。さらに4回裏にも2点を奪われ、逆転を許してしまう。坂出高はここで大坂から多木にリリーフした。
「ごめん」
 大坂は小さくつぶやいて多木にボールを手渡し、一塁へと向かった。

 大坂の後を受けた多木は、後続を抑え、5回裏も無失点に封じた。しかし6回裏には押し出し四球などで2点を失い、その差を4点と広げられた。さらにアクシデントが多木を襲った。7回表の打席後、右足が痙攣し始めたのだ。医務室で体温を測ると39度近くの高熱があった。熱中症だった。しかし、投げられるのは自分しかいないことはわかっていた。

 試合に戻ろうとすると、「熱が下がるまではダメです」と止められた。いくら多木が懇願しても医者は首を縦に振らなかった。とにかく熱を下げることが先決だった。全身を冷やすこと約30分、なんとか微熱程度にまで下がり、多木は再びマウンドに上がった。炎天下、チームメイトも観客もじっと待ってくれていた。そんな彼らに何としても応えたかったのだろう。暑さと疲労で、ほとんど自分のピッチングはできなかったが、最後の力を振り絞り、7、8回を無失点に抑えてみせた。

 そして9回表、坂出高は一人もランナーを出すことができないまま、2死となった。打席に向かったのは多木だった。
「とにかく自分のスイングをしよう」
 そう思い、バッターボックスに立った。結果はファーストゴロ。多木は最後のバッターとなった。
「本当にアッという間の3年間でした。僕にとっての高校野球は楽しかったです」
 結局、一度も甲子園に出場することは叶わなかったが、多木の心はやり尽した達成感、充実感に溢れていた。

(最終回につづく)

多木裕史(たき・ひろし)
1990年5月12日、香川県丸亀市生まれ。小学4年から軟式野球をはじめ、高校は父親が監督を務める坂出高に進学。遊撃手兼投手として活躍し、2年時には県大会準決勝に進出した。法政大では1年春からレギュラーを獲得し、打率3割4分1厘、チーム最多の12打点をマーク。ベストナインにも選ばれた。さらに全日本大学選手権では打率6割6分7厘をマークし、首位打者賞を獲得。同大14年ぶりの日本一に大きく貢献した。177センチ、74キロ。右投左打。








(斎藤寿子)
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