石川とわ(日本体育大学ビーチバレー部/愛媛県四国中央市出身)第3回「必然の進路選択」

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 2019年春、愛媛県立三島高校に進学した石川とわは、ビーチバレーボールに出合う。きっかけは高校の顧問からの打診だった。体験会からスタートしたビーチバレー。インドアのバレーボールとアウトドアのビーチバレーは似て非なるものだ。

「楽しいは楽しかったのですが、私に合っているとは全然思えなかった。ビーチバレーはスパイクのみならずレシーブ、セット(トス)もできないといけない。自分はスパイカーでスパイクだけを強化してきたような選手だったので、パスもセットも下手くそ。それに加え、砂の上をうまく走れないし、眩しいし、水着になることなど、最初は戸惑うことばかりでした」

 インドア時代はアタッカーを任されることが多く、強打で得点を決めることが石川の武器だった。アタッカーとしての能力はビーチバレーでも生きるが、それ以上にオールラウンドな能力が求められる。「“こりゃダメだ。自分には才能ない”と思っていました」と石川。それでも経験を重ねていくうちに、当初は後ろ向きとも言えたビーチバレーボールの印象が変わっていくのだから面白い。

「回数を重ねていくうちにラリーが続くことの楽しさを知りました。インドア以上にビーチバレーはラリーが続きやすい。自分は下手なので相手に狙われましたが、その分、ボールに関わる機会が増えた。その繋いだボールを決めることができたら、メッチャ気持ちいい。ビーチバレーで活躍されていた方に教えていただき、“こんないい環境はない”と思えました。またこのビーチの経験がインドアに成長して戻ってこられると考え、“ビーチバレーを頑張ろう”と決意しました」

 

 石川はジュニアオリンピックカップ(JOC)の愛媛県選抜でも一緒にプレーした藤田晴(新居浜西高校)を誘い、ペアを組んだ。石川ペアはセレクションを経て、選考会を勝ち抜いた。翌年の愛媛県での伊予市ビーチバレージャパン女子ジュニア選手権大会(マドンナカップ)と、茨城県で行われる国民体育大会(現・国民スポーツ大会)への出場権を得た。

 

 迎えたマドンナカップはベスト16。国体は2回戦で敗れたものの、マドンナカップを制し、この国体も優勝する東京都代表(衣笠乃愛&菊地真結組)に健闘したことで評価を上げた。その後はトライアウト、選考合宿を経てU19アジア選手権の日本代表にも選ばれた。全国レベルの選手たちと出会ったことは、石川にとって、むしろモチベーションになった。

「身長がメッチャ高い人、何でも拾う人もいて圧倒されました。私のインドアよりもコートで動ける選手がたくさんいた。自分が思っていた何倍もできる人たちがいて、“いつか自分もそうなりたい”と思い、“もっと突き詰めてやりたい”とビーチバレーボールによりのめり込んでいくようになりました」

 

 しかし、石川が高校3年のシーズンは2020年。新型コロナウイルスによる未知の感染症により、全国大会は軒並み、中止・延期を余儀なくされた。ビーチバレーボールも全国大会が中止となり、マドンナカップや国体も開催されなかった。当然、石川が日本代表に選ばれていたU19アジア選手権も中止で、国際大会を経験する機会も逸することとなったのだ。

 

 それは進路を決める高校生にとって大打撃と言える出来事だった。とはいえ石川は、前年度の活躍から、日本体育大学から声がかかっていた。

「はじめは愛媛県の大学に行こうと思っていました。でも日体大から誘いを受けたことにより、一度愛媛から離れることが自分の成長にも繋がると思いました。日体大は専用コートや全国レベルの選手も揃っていてビーチバレーでうまくなるための環境が整っていました。それに加え、教員を育てる大学でもある。それなら“日体大だ”と思ったんです」

 

日体大での成長

 彼女が教員を目指すのは、父・典英が中学校の体育の教員だったことが影響している。「小さい頃から父が生徒と一緒に成長しようとしていて、真剣に向き合っている姿を見ていました。生徒からも好かれていましたし、私にとってもすごく尊敬できる存在」。また高校の教員や、友人に勧められたこともあり、徐々に教員になる夢は膨らんでいた。その石川にとって、日体大はビーチバレーとの両立が見込める、必然の選択肢だったと言えよう。

 だがビーチバレーボールを始めたばかりの石川は、高校3年時には全国大会を経験していない。キャリアも豊富とはいえない中、強豪の日体大で、すぐに頭角を現わせるほど、この世界は甘くはない。

「1、2年生の頃は体力がなかった。先輩は普通にプレーしているのに自分はすぐ息が上がっていた。考えてプレーできないくらい体力が削られ、何もできない時期がありました」

 

 心が折れそうな時もあったが、「辞めたい」という思いが頭を過ることはなかった。「小学生の頃から、自分がやると決めたものは最後までやり通したいと思っていましたから」。幸いにして先輩たちがよくしてくれたことも大きかった。

「練習に緊張感はすごくありました。でも練習が終われば先輩たちは年齢関係なく食事に誘ってくれて、仲良くしてくださった。いい先輩に巡り会えて、ビーチバレーボール選手としてだけでなく人として成長できました」
 1、2年生時は目立った成績を残せなかったが、先輩とペアを組みながら少しずつ力を付けていった。

 

 3年時は1学年上の福田鈴菜(現・湘南RIGASSOビーチバレーボールクラブ)と組んで全日本ビーチバレー大学選手権(全日本インカレ)優勝を目指した。福田は石川にとって憧れの存在だ。「鈴菜さんのプレーは砂の上とは思えないほど俊敏。自分が諦めてしまうようなボールもカバーし、打てる位置にボールを持ってきてくれる。すべてにおいて尊敬するところしかありません」。福田と組み、関東大学ビーチバレー選手権大会で準優勝。全日本インカレはベスト4に入った。日本一に届かなかったものの、“自分には才能がない”ところからスタートしたビーチバレーボールで、大きな手応えも掴んだ1年だったのではないだろうか。

 

 福田ら先輩たちが卒業し、2024年春、石川は最上級生となった。彼女は届かなかった「日本一」を競技人生の集大成として考えていた――。

 

(最終回につづく)

>>第1回はこちら

>>第2回はこちら

 

石川とわ(いしかわ・とわ)プロフィール>

2002年8月27日、愛媛県四国中央市生まれ。小学3年でバレーボールを始める。三島高校進学後、ビーチバレーを。高校2年時にマドンナカップ、国民体育大会に出場し、U19日本代表にも選ばれた。日本体育大学進学後、ビーチバレーに専念。大学3年時に1学年上の福田鈴菜と組み、全日本大学ビーチバレーボール選手権大会でベスト4入りを果たす。大学4年時には1年生の松崎伊吹とのペアで関東大学ビーチバレー選手権大会ベスト4入りし、全日本大学ビーチバレー選手権では優勝した。同大会制覇は日体大女子初。身長171cm。右利き。モットーは「常に楽しむ」「やり切る」。

 

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

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