石川とわ(日本体育大学ビーチバレー部/愛媛県四国中央市出身)最終回「故郷でビーチバレーの繋ぎ役に」
2024年春、日本体育大学4年となった石川とわ。ビーチバレーボール部では最上級生となり、この年の全日本ビーチバレー大学選手権(全日本インカレ)優勝に懸けていた。“最後のインカレ”ということもあるが、それ以上に競技人生の集大成として捉えていたからだ。
石川の述懐――。
「入学した当初から将来的に教員になることを考えていました。2、3年生時には卒業後もビーチバレーを続ける先輩を見て、“いいなぁ”と思っていましたが、やはりプレーをしていく中でプロの覚悟や熱量が自分とは違っていた。大学4年に上がる頃には、選手を育てる側に回った方がいいと思い、進路を決めました」
ラストイヤーを迎え、1年生の松崎伊吹と組むペアに不安要素がないわけではなかった。組んだばかりの頃は噛み合わないことも多かったという。部内戦で石川の同期・磯部菜々花と1年後輩の牧悠菜が組むペアに勝ったのは最初と全日本インカレ直前の2度だけだった。それでも石川と松崎のペアは「徐々に合うようになってきた。合わなかった時も冷静に話し合えていました」という。関東大学ビーチバレーボール男女選手権大会(関東インカレ)はベスト4に入った。
川崎マリエン・ビーチバレーボールコートで行われた8月の全日本インカレ。大会は予選、決勝トーナメントを3日かけて戦う。石川&松崎ペアは初日、2日目と勝ち上がった。
山場は最終日の準決勝だ。対戦相手は京都橘大学の石原泉(4年)&久岡千夏(2年)のペア。既に日本最高峰のツアー「ジャパンビーチバレーボールツアー」に出場し、7月の全日本ビーチバレーボールU-23男女選抜優勝大会(U23選抜)を制している大会優勝候補の本命と目されていた。「緊張もあり、ビビッてしまうようなプレーになっていた」とは松崎。流れを掴めぬまま第1セットを10-21で落とした。
「変わらず楽しんでプレーしよう」。石川は自分たちのバレーを貫こうと決めていた。「とわさんの声掛けにすごく助けられました」と松崎は言う。石川は「楽しんでいたからミスも恐れずいろいろなプレーが選択できた」と、決して後ろは向かなかったし、後輩に下を向かせなかった。第2セットを21-17で取ると、15点マッチとなる最終セットも競った展開に持ち込んだ。
「楽しんだ」最後の全日本インカレ
ところが、まさかのアクシデントが石川たちを襲う。セットカウント1対1の3セット、13-13の場面で松崎の右足がつってしまったのだ。「この3日間、ずっと狙われていたんです。身長が低くて1年生ということもあったので……。その疲労もきていたんだと思います」と石川。それでも松崎は踏ん張った。何より「相手が焦っているようにも見えました。自分たちは『まず1点1点取ろう』と声掛けをしながらやっていたので、変に力が入らず戦えました」と慌てなかった。15-13で振り切った石川&松崎が初の決勝進出を決めた。
数時間後に行われた決勝は産業能率大学の栗沢優菜(3年)&笹渡美海(2年)と対戦した。このペアもジャパンツアーに出場経験がある実力者。石川と松崎がベスト4に入った関東インカレの準決勝で負けた相手だ。リベンジの想いも少なからずあっただろう。
相手は準決勝でストレート勝ちを収め、決勝にコマを進めていた。消耗度では石川&松崎ペアが断然不利に思えた。だが「時間が空いた分、いろいろ考えてしまうなど、様々な要素が重なったのかもしれません」と石川。栗沢&笹渡ペアは“変わらず楽しくやろう!”と挑んだ石川&松崎ペアとは対照的だった。石川によれば相手の表情は、心なしか強張っているように見えたという。
この試合も石川と松崎は「楽しんで」プレーをした。第1セットは優位に試合を運び、21-15で先取した。続く第2セット目は、中盤までリードしていたが、相手に詰め寄られたが、21-19で逃げ切った。日体大女子としては初の全日本インカレ制覇。その名を歴史に刻んだ。「日体大に入って良かった、と思いました」と石川。全日本インカレの優勝ペアは、ジャパンツアーへの出場権が授与される。
8月、ジャパンツアー第5戦青森大会で石川&松崎は村上礼華(ダイキアクシス)&橋本涼加(トヨタ自動車)組という国内トップクラスのペアと対戦した。敗れはしたものの、得難い経験値を手に入れた。この試合でも笑顔が目立った石川。負けて悔しくないわけがない。だが彼女にとっては、楽しんでプレーしていたというだけでなく、これまでの競技人生をやり切ったという思いも含まれた満足感に溢れていた上の笑顔だったのかもしれない。
とはいえ全日本インカレを優勝したことで、石川を引き留める声もあったはずだ。
「実際、『続けたほうがいいよ』と言ってくださる方もいました。ただ続けるだけだったら、全然いいのですが、上を目指すには自分の技量が足りない。“選手をやりたい”という気持ちがあっても、ずっと続けられるものではない。そういう迷いがあるくらいなら教員に絞ろう、と。もちろんビーチバレーは好きなので関わっていくつもりです。いい選手を発掘し、愛媛の高校、大学出身の(村上)礼華さんのような将来プロで活躍する選手になってくれたらうれしい」
その気持ちに迷いはない――。今年、石川とペアを組んだ松崎は「もちろん寂しくはあるのですが、とわさんの道を応援したい気持ちです」と先輩にエールを送る。
理想の教師像とは
石川は故郷・愛媛に帰り、教員になる道を志す。今年は全日本インカレに集中するため、教育実習や教員試験に向けた勉強は後ろにスライドさせた。現在は夢に向かって歩を進めている最中だ。
果たして、彼女はどんな教師像を理想に描いているのか――。
「父であったり、高校の時の先生のような教員になりたい」
父・典英も高校時代の恩師も石川によれば「生徒と真剣に向き合っている」教員である。父・典英は「子どもの傍に笑顔でおってくれる、生徒に寄り添えるような教員になってほしい」と娘の将来を願う。
その父に、娘に指導者としての娘の素養があるのかを訊ねた。
「娘が高校3年の時、コロナ禍で学校に行きたくても行けなかった。その時期、家では妹にバレーボールを教えていました。優しく厳しく上手に教えていた。“そんなふうに教えるのか”と感心しましたね」
親の欲目もあるかもしれないが、指導者としての片鱗を見せたように映ったのだ。石川自身、高校時代に友人や教員から勧められたことで教員になることを強く意識した。
日体大のビーチバレー部は、石川の3年時から体制が変わり、競技専門の指導者を置いていない。上級生が練習メニューを考え、下級生に指示を出す。
「1対1でアドバイスすることは前からやっていましたが、全体の前で考えたメニューを分かりやすく、的確に教えることが難しかった。長々としゃべり過ぎてしまうことがあれば、短過ぎて伝わらないこともありました。その経験を経ていくうちに、“こういう伝え方じゃダメだ”と学べました」
教員を目指す彼女にとっては、貴重な経験になったと言えよう。
先述したように第一線からは退くが、ビーチバレー界から完全に距離を置くわけではない。
「愛媛で高校の教員になった後は、愛媛でインドアのバレーボールをやっている子でビーチバレーに向いている子がいたら声を掛けたり、指導者と繋げる人になりたいと思っています」
ビーチバレーの橋渡し役を担い、普及・育成に尽力したいと考えている。
親が教員だろうと、ビーチバレーが盛んと言われる愛媛だろうと、それぞれ容易い世界ではない。だが彼女は「やり切る」「楽しむ」をモットーに我が道を突き進むはずだ――。
(おわり)
<石川とわ(いしかわ・とわ)プロフィール>
2002年8月27日、愛媛県四国中央市生まれ。小学3年でバレーボールを始める。三島高校進学後、ビーチバレーを。高校2年時にマドンナカップ、国民体育大会に出場し、U19日本代表にも選ばれた。日本体育大学進学後、ビーチバレーに専念。大学3年時に1学年上の福田鈴菜と組み、全日本大学ビーチバレーボール選手権大会でベスト4入りを果たす。大学4年時には1年生の松崎伊吹とのペアで関東大学ビーチバレー選手権大会ベスト4入りし、全日本大学ビーチバレー選手権では優勝した。同大会制覇は日体大女子初。身長171cm。右利き。モットーは「常に楽しむ」「やり切る」。
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(文・写真/杉浦泰介)