第169回「筋肉とピアノ」
いま思うと、私には筋肉への憧れがあるようです。
学生の頃、アルバイトで貯めたお金で、プロテインを買いました。バスケットボール部に所属し、最初は練習にもしっかり参加していました。「練習後に飲むと、筋肉がつく」という体育科の同級生が飲んでいたのを真似したのです。私にとって、かなりの出費でしたが、「筋肉がつく」と思うとわくわくしました。しかし効果は感じられませんでした。今考えると、効果が出るような飲み方をしていなかった。手応えがないのは当たり前のことでした。
「期待したほどじゃない。それにココア味ってなんだ。甘いじゃないか。太るんじゃない?」と完全に間違った考えのもと、あっという間に摂取を止めました。
そして時は過ぎ――。
STANDでの活動が始まると、様々なスポーツの場面に立ち会い、魅力的な人に出会いました。もともとスポーツ好きだったにもかかわらず、自身が身体を動かす機会をなかなか持たずに過ごしました。そして5年前、ふと気づくとこんな傾向が見られるようになりました。
・駅の階段を最後まで登れず、途中で休憩する。
・立ち上がった際、膝に痛みが走る。
・歩く速度が落ちる。
・服のサイズが合わなく、着られなくなる。
これはまずいぞ、と危機感を覚えた私は、パーソナルトレーニングに通いました。そこで素晴らしいトレーナーさんと出会ったのです。この時、久しぶりに筋肉のことを考えるようになりました。私の「筋肉をつくりたい」という無謀とも思えるリクエストに、トレーナーさんは応えてくれ、とても楽しく厳しく指導してくださいました。
これと同じタイミングで、尊敬する環太平洋大学の三浦孝仁教授にインタビューの機会を得ました。三浦先生は教えてくださいました。
「筋力そのものは、いくつになっても鍛えることが可能です。だから私は夢と希望があるのが筋肉だと考えています」
齢を重ねて今さら、私の肉体は変わっていけるのだろうかと不安だった私に三浦先生は光を与えてくださいました。そしてこれは自慢話なのですが、1年間で10キロ痩せ、タンスに眠っていたジーンズもスカートも着られる身体を手に入れました。本当に感謝しています。
ところが、そこで、コロナとなり、ジム通いを止めざるを得なくなりました。痛恨の極みです。
気持ちを入れ替え、その後、筋トレとはまったく違う世界観のピアノの練習を始めました(第148回「練習がきらい。それでもチャレンジは止めない」)。
ピアノは細~く、ですが今も続いています。いろいろな曲に少しずつチャレンジしています。今はジャジーな一曲。いい感じです。ところが練習嫌いな私にとって、なんとも苦手なものがあります。
ピアノの先生は音大出身のとっても面白い方です。先生は好きな曲のほかに「ハノン」を薦めてくれました。満面の笑みで、「やりましょう!」と。「ハノン」とはフランスの作曲家ルイ・ハノンによる『60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト』という教本を指します。これはフィンガートレーニングの本で、同じ音型をひたすら繰り返すもので「一番退屈な練習」と否定的な見方もあります。
もちろん、様々な効果のあるトレーニングです。でも申し訳ないのですが、私は苦手。つまらないんです。やりたくないんです。レッスンでは毎回好きな曲とハノンの2曲を弾きます。その度に、好きな曲とハノンの練習量の差が先生にバレバレです。ある日のレッスンでハノンを弾いた後、大げさに手をぶるぶると振りました。前腕が疲れるのを表現した、いかにも稚拙な仕草です。先生は微笑んで、「疲れますよね~」と優しく声をかけてくれます。
その先生が先日、こんなお話を聞かせてくれました。
「最近、私のレッスンにジムのトレーナーさんが来たんです。この方、ハノンが大好きなんです」
私は、信じられない、変な人だわ、と一瞬思いました。
先生は続けます。
「ここ(前腕)が痛くなりますよね。そのトレーナーさんは、ああ、痛いな~と思ったら、その時が好機。そこからもう少し、弾くんです。すると前腕筋が鍛えられて筋肉がつく。うれしいって思うとハノンが大好きになるんですって」
これには驚きました。まったく、思いつきもしませんでした。
変わり身の早い私。“ハノンは筋トレなんだ。私にまた、筋トレのチャンスが巡ってきていたんだ”と。これまで毛嫌いしていたハノンが少し愛おしくなり、前腕筋が使われていることに喜びを感じられるようになりました。
おまけに。引き出しの奥にしまってあったジム通いのころのプロテインを、ピアノの練習後に飲んでいます。またまた間違っている気もしますが、なんだか楽しいのでしばらく続けるとしましょう。
<伊藤数子(いとう・かずこ)プロフィール>
新潟県出身。パラスポーツサイト「挑戦者たち」編集長。NPO法人STAND代表理事。STANDでは国や地域、年齢、性別、障がい、職業の区別なく、誰もが皆明るく豊かに暮らす社会を実現するための「ユニバーサルコミュニケーション事業」を行なっている。その一環としてパラスポーツ事業を展開。2010年3月よりパラスポーツサイト「挑戦者たち」を開設。また、全国各地でパラスポーツ体験会を開催。2015年には「ボランティアアカデミー」を開講した。2024年、リーフラス株式会社社外取締役に就任。著書には『ようこそ! 障害者スポーツへ~パラリンピックを目指すアスリートたち~』(廣済堂出版)がある。