岩村明憲が日本に戻ってきた。
 今季からクリムゾンレッドのユニホームに身を包み、杜の都でプレーする。星野仙一新監督の下、岩村らの加入で楽天がどう変わるのか。開幕が早くも楽しみだ。日本屈指の強打者へと成長を遂げたヤクルト時代、弱小レイズのワールドシリーズ進出に貢献したメジャーリーガー時代と、節目節目でインタビューを試みてきた当HP編集長の二宮清純が日本球界復帰にあたっての心境を訊ねた。
(写真:「牛たんもおいしいし、人もいい」と仙台の印象を語る)
 闘将からの電話

二宮: 5年ぶりにメジャーリーグから日本に戻ってプレーします。今の心境は?
岩村: 心新たに気持ちよく野球をやれる環境を与えていただいて、本当に感謝しています。この楽天で大暴れしたいですね。

二宮: 楽天入りを決断した一番の理由は?
岩村: 楽天が星野監督に代わって、いの一番の補強で岩村という名前をあげてくれたらしいので、僕としては断る理由がなかったですね。昨年、3Aでプレーしている時から、「オマエが必要なんだ」と信頼される場所で、とにかく野球を楽しんでやりたいと思っていました。それは日本だろうがアメリカだろうがどこでもいい。そう思っていたところへ真っ先に声をかけていただいたので、すごく男気を感じました。

二宮: 星野さんと直接、話をしたのは?
岩村: お電話をいただいたのは、去年の10月。ちょうど(宇和島東高の恩師である)済美高の上甲(正典)監督に挨拶をしにいったところだったんですよね。楽天と交渉することになりましたという報告をしていたら電話が入った。

二宮: 目の前には恩師の上甲さん、耳元では星野さん。それはすごいシチュエーションですね(笑)。
岩村: 上甲監督の前でそんな話はできないし、星野監督に「ちょっと待ってください」とも言えない(苦笑)。着信の名前を見た瞬間、上甲監督には「スミマセン。電話なので外に出ます」と謝って、ダッシュで監督室を出て、電話をとりました。

二宮: どんな言葉をもらったのですか?
岩村: 星野さんにはよく言われるように怖いイメージがあったんですけど、それをまったく感じませんでした。本当に包み込むような声で「ああ、岩村か」っていう優しい声でね。「オマエと一緒に野球がしたかったんや」と。昨年は本当に3Aも経験して苦しかったので、その言葉は砂漠の中でオアシスに出合ったような一言でした。まだ、交渉中の段階だったんですけど、その時点で120%気持ちは固まりましたね。「ぜひよろしくお願いします」と答えている自分がいました。

 地獄があったから天国の良さがわかる

二宮: メジャーで4年間プレーしたわけですが、最も大きな収穫は?
岩村: やっぱりワールドシリーズの舞台に立ったことです。ワールドシリーズは最後まで勝ち進んだ2チームだけに与えられる最高の舞台。どんな有名な選手もチームが勝てなければ、指をくわえてみているしかないんです。そんな場所へたかだか2年目で行けるとは思いませんでした。最終的には負けてしまったので、本当に悔しいんですけど、言葉にならない感激はありました。

二宮: しかし、その一方でつらい出来事もありましたね。一昨年の左ヒザの大ケガです。セカンドでの守備中に相手選手に“反則まがい”のスライディングを受けてしまった。幸い3カ月で復帰できましたが、一歩間違えば選手生命も奪われかねない重傷でした。
岩村: セカンド、ショートをやっている選手の宿命といえば宿命ですよね。いろいろ思うところはありますが、僕も逆の立場だったら、似たようなことをするかもしれない。しょうがないですよね。実際、メジャーのチームはそういうリスクを考慮して、どこもショートに対しては比較的評価が高い。ただ、セカンドはそこまでの評価を受けないみたいなんですよね。どの球団もいいセカンドを求めてはいるんですが、なかなか定着する選手はいない。安定した成績を残せる選手が30球団の中でも数人しかいないので、市場価値が低くなっている。

二宮: ワールドシリーズも、マイナー落ちも経験した。まさに天国と地獄を見たという米国生活だったと言えるでしょうね。本当は天国だけだったら、良かったんでしょうけど。
岩村: でも、地獄があるから初めて天国の良さがわかるし。天国があるから地獄の辛さもわかると思うんですよ。いろんなことを経験して、自分の中に取り入れられれば、人間としてデカくなれる。今まで野球をやってきて僕は岩村明憲っていう人間がデカくなっていることに感謝しています。それが厳しいケガを乗り越えたり、不振でマイナー落ちを経験せざるを得ない状況であったとしてもね。

二宮: マイナーリーグでは通訳もいない。言葉の面でも苦労したでしょう?
岩村: 9月にオークランド・アスレチックスと契約してからも、通訳はいなかったので、約4カ月間、自分でコミュニケーションをとらなくてはいけない生活でした。英語をマスターできたかどうかは分かりませんが、話す度胸はつきましたね。日本に帰って使わなくなったので、もうだいぶ英語は忘れてしまいましたが(苦笑)。

 想像しなかった松井稼との三遊間コンビ

二宮: 岩村選手の実績を持ってすれば、楽天での活躍は間違いないと思うのですが、ひとつ心配があるとすれば、春先の仙台の寒さです。ヒザに影響がないかなと心配している方も多いと思います。
岩村: オフもトレーニングをしていましたが、ヒザの影響はまず感じません。09年にケガをした年や、昨年のピッツバーグ(・パイレーツ)ではかなり大きなニーブレスをヒザに着けざるを得ない状況でした。ユニホームも左のヒザだけ大きくしていましたからね。パイレーツの監督には「その影響で動きが悪くなっているんじゃないか?」って言われたんですよね。だから、3Aに落ちてからはニーブレスをやめたんですよ。それで薄いサポーターだけでも、プレーできるようになったし、動きも元通りになったので、仙台の寒さも乗り切れるんじゃないかなと感じています。

二宮: 楽天は昨季、パ・リーグの最下位でした。タンパベイ・レイズ(当時でビルレイズ)に移籍した時と、ちょっと状況が似てるかなという気もします。
岩村: いや、タンパベイよりはいいんじゃないですか(笑)。僕が入ったときは10年で9回最下位のチームでしたからね。楽天は一昨年、クライマックス・シリーズに行ってますし、しかも僕は、その試合を観に仙台へ行っていたんです。その時は自分がプレーするとは思ってもなかったんですけど、その時には選手1人1人が自信を持ってやっていたように映りました。なぜ昨年、最下位になったのかなと感じるほどです。
 まぁ、原因はいろんなことが考えられると思います。監督が代わったことも影響しているだろうし、それに対して選手が敏感に反応し過ぎた部分も絶対あると思うんですよ。ただ、監督が誰であっても自分がやらなきゃいけないのは野球ですよね。だって、僕たちは野球選手ですから。監督が代わったからって、自分の野球を変えたらまずい。一昨年、あんなに自信を持ってやっていた選手たちですから、自分たちの野球をやってチームがひとつにまとまれば、また勝てるようになるはずです。

二宮: 監督が代わろうが、やるのは選手。そういうプロッフェショナリズムを星野監督も期待していると思います。ヤクルト時代、相手ベンチから星野監督をどのように見ていましたか?
岩村: やりづらかったですね。監督がチーム全体に喝を入れるような雰囲気だったので、その気合に負けないように意識していましたね。

二宮: ヤクルト時代はクリーンアップ、メジャーリーグではトップバッターも経験しました。岩村選手の中で打順のイメージはありますか?
岩村: 今季に関しては正直、僕が何番を打つのか、全然わかりません。何番を打ちたいというよりも、普通どおりに野球をやっていれば監督が適材適所の打順を考えていただけるんじゃないかなと思います。ただ、星野監督が指揮を執ったチームのオーダーを見ると、1番、2番、3番の上位には足のある選手を持ってくる傾向がある。そして4番、5番には勝負強いバッターを持ってくる。キーポイントになってくるのが6番。中日ドラゴンズが99年に優勝したときの6番バッターは山武司さんなんですよね。4番にゴメスがいて、6番に山武司さん。ゴメスが打って返すだけじゃなく、打てなかった時にも、また武司さんがいる。6番バッターがキーになるオーダーでした。星野監督はそういうチームづくりを楽天でもするんじゃないかなと。

二宮: 楽天には松井稼頭央選手も入団します。メジャーで活躍した三遊間コンビは注目の的でしょう。意思の疎通はいかがですか?
岩村: バッチリですよ。メジャーでは同じセカンドでポジションがかぶっていましたし、まさか同じチームでやれるとは想像もしていませんでした。でも、僕は稼頭央さんは兄貴だと思って接していますし、チームの中で稼頭央さんがいろいろと一緒になって言ってくれるので、すごく心強いですね。

二宮: 岩村選手も松井選手も日本シリーズとワールドシリーズの両方に出場しています。それだけに勝つにはどうすべきか、高いレベルで共振し合えると?
岩村: そうですね。日本に戻ってきて、いろいろ言うと反発を招くことは覚悟しているんですよ。「出たよ、アメリカかぶれ」と感じる人は絶対にいる。中には保守的な人もいるだろうし、アメリカのことをおもしろくないと感じている人もいるでしょう。だた、僕たちはアメリカの文化も含めてメジャーで学んだことを日本の野球界に取り入れていかないと、これから先、発展しないと感じています。だから、それらを伝えることが僕の役目だと信じています。

(後編につづく)

<岩村明憲(いわむら・あきのり)プロフィール>
1979年2月9日、愛媛県出身。右投左打の内野手。宇和島東高から97年ドラフト2位でヤクルトへ入団。00年にはサードのレギュラーとなり、ゴールデングラブ賞を初受賞。翌年、ヤクルトの日本一に貢献した。04年に自己最多の44本塁打をマークしたのを皮切りに、3年連続で打率3割、30本塁打以上を記録。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞6回の実績を残し、06年オフにポスティングシステムでメジャーリーグに挑戦、デビルレイズ(現レイズ)に移籍した。慣れないセカンドへのコンバートを経験しながら、08年には1番打者としてチームを牽引。チームを球団創設初のリーグ優勝に導いた。WBCでは06年、09年と日本代表のメンバーとして連覇を果たしている。10年はパイレーツへ移籍したが、シーズン途中に戦力外通告を受け、9月にアスレチックスへ。今季からは5年ぶりに日本球界に復帰し、楽天でプレーする。日本での通算成績は打率.300、188本塁打、570打点。メジャーでの通算成績は打率.267、16本塁打、117打点。



<この記事は「二宮清純の我らスポーツ仲間」(テレビ愛媛、2011年1月2日放送)での対談を元に構成したものです>
◎バックナンバーはこちらから