人生を変えた大会だった。
 2010年12月12日、東京体育館。柔道グランドスラム東京大会。男子73キロ級に出場した中矢力は大会前まで同階級のIJFランキングが68位で周囲の期待度は決して高くなかった。本人も入賞を目標に大会に臨んだ。「1、2回戦は固かったですね」。いつも緊張するという初戦、そして2戦目を乗り切ると、準々決勝、準決勝を勝ち上がり、決勝へとコマを進めた。
 対する相手は西山雄希(筑波大)。2学年年下ながら、ランキングは31位と中矢を上回る。試合は中矢が背負い投げを何度も仕掛けようとするが、相手も手の内を知り尽くしているだけに、簡単には決まらない。残り1分30秒となったところで中矢は消極的として指導を受けた。

 攻める姿勢をみせたい中矢は残り1分を切り、巴投げをみせる。これで西山の体勢が崩れた。すかさず右腕をとり、十字固めに持ち込む。
「相手が“参った”と僕の足をトントンと叩いていたんですが、審判が気づいてくれなかった。それで分かりやすいように、腕をとっているところを表にしたんですけどね……」

 だが、それでも主審は西山の“参った”に気づかない。そのうちに「待て!」がかかり、立ち上がるように促された。
「えっ? 終わりじゃないの?」
 中矢はキョトンとした表情で審判団を見回した。とまどいを隠せないまま畳の中央に戻ると、幸いビデオをチェックするジュリーからの指摘が入った。協議の末、ようやく一本勝ちが認められた。シニアの国際大会で初の頂点に立った瞬間だった。

 中矢の勢いは年を越しても止まらない。2月5日から開催されたグランドスラムパリ大会。
「対戦したのはほとんどがランキング上位の選手。勝ってアピールしたかった」
 3回戦で北京五輪66キロ級銀メダリストのバンジャマン・ダルベレ(フランス)から大外刈りで一本を奪うと、準々決勝、準決勝と足技が炸裂する。ダルベレ戦から大外刈りで3連続一本勝ちを収め、決勝に進出した。

 決勝の相手はランキング3位のアッティラ・ウングバリ(ハンガリー)。ここでも開始から1分で大外刈りをみせ、崩れた相手を抑え込みにかかる。縦四方固めが極まり、見事な一本勝ち。真価が問われる大会で優勝し、グランドスラム2連勝を飾った。

 急成長の背景には立ち技の成長がある。それまでの中矢は寝技に定評があった。一方で、自分から仕掛けて相手を崩す部分で課題を指摘されていた。講道館杯では07年、09年と2度、決勝に進出しながら、いずれも準優勝に終わった。新たな切り札を手にしたのは、昨年の春頃だ。大外刈りが稽古でも思うように決まり始めた。
「ただ一本をとるだけではなく、足技で相手を崩したり、投げに持ち込んだり、バリエーションが広がりました」
 昨年の講道館杯では3度目の正直で初優勝。それが国際大会での快進撃につながった。

 グランドスラムの連勝で68位だったランキングは一気に8位までジャンプアップした。男子の場合、次回のロンドン五輪で出場資格を得るためにはランキング上位22名以内に入ることが求められる。ただし、各国に与えられる出場選手枠は1つしかない。73キロ級にはランキング2位に秋本啓之(了徳寺学園職)がいる。少なくともランキングで秋本を上回らなければ、中矢にロンドン行きの切符は得られない。

 まだ21歳の大学3年生。しかし五輪出場のチャンスは次のロンドンしかないと考えている。
「さらに4年も経てば、また若手が出てくると思うんです。だから自分が一番、若いうちに五輪に出たい」
 代表入りへアピールするには2011年は重要な1年になる。まずは4月の全日本選抜体重別選手権で好成績を収め、8月の世界選手権へ。そして、そこで世界のトップに立つ――これが最高のシナリオだ。

「ロンドンが少し見えてきたと思います」
 グランドスラムの金メダルから拓けてきた大舞台への道。中矢はその第一歩を力強く踏み出した。 

(第2回へつづく)

<中矢力(なかや・りき)プロフィール>
1989年7月25日、愛媛県出身。5歳から柔道を始め、小学校時代は県内でほぼ無敵の強さを誇る。松山西中を経て、新田高2年の時にインターハイ73キロ級で優勝。翌年(07年)、ロシアジュニア国際を制し、シニアの大会でも講道館杯で準優勝を収める。東海大学進学後は、09年、10年と学生体重別を連覇。10年には3度目の決勝進出で講道館杯を初制覇。その余勢を駆って、同年12月のグランドスラム東京、11年2月のグランドスラムパリに連勝。IJFランキングで一気にトップ10入りを果たし、ロンドン五輪の代表争いに名乗りを上げている。



(石田洋之)
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