東海大男子柔道部の上水研一朗監督が、中矢を勧誘しようと思ったきっかけは、彼が高2で73キロ級を制したインターハイだった。
「あの時は会場の体育館が本当に暑くて座っているだけでも汗がしたたり落ちるくらいの悪条件だったんです。そんな中で、彼は初日の団体戦の予選から翌日の団体戦本戦、そして個人戦とこなしてもまったくバテたところをみせなかった。その粘り強さ、たくましさに感心したんです」
 東海大といえば言わずとしれた大学柔道界の雄である。猪熊功、山下泰裕、中村兼三、井上康生……。大学の武道館には、世界を制したOB、関係者の写真が飾られている。そんな場所へ飛び込むことを最初はためらった。ただ、中矢の3つ上の兄が東海大の柔道部に在籍していた。当時、コーチを務めていた上水監督はその兄を介し、進学先を迷っていた中矢を高3の夏休みに大学へ呼び寄せた。上水監督は「2007年7月31日」とその日のことをはっきり覚えている。車で羽田空港まで迎えに行き、大学の施設を見せた。そして食事を囲みながら、指導方針を丁寧に説明した。最後は「ウチに来い!」と迫った。「半ば強引だった」と上水監督が振り返って苦笑いするほどの熱意が通じ、中矢は東海大を進路に定めた。

 入学後、結果を求めるあまり、「柔道が小さくなっていた」という中矢へ指揮官ははっきりと言った。
「このままだと限界がくるぞ」
 それは期待ゆえの厳しい一言だった。
「あのたくましさと素質があるのだから、世界に通用する選手にしたいと思っていました。だから、まずはしっかり組むこと、そしてどんな技でも仕掛けられて、相手に的を絞らせないようにすることを意識させました」
 大学1年生から地道に練習を重ねていた成果が、今ようやく花開きつつある。立ち技が成長したおかげで、得意の寝技にも持ち込みやすくなった。

 ロンドン五輪の代表決定までは、あと1年。出場チケットを手にするには、日本の第一人者・秋本啓之(了徳寺学園職)を倒さなくてはならない。ここまでの対戦成績は2戦2敗だ。
「技が速くて、右からでも左からでも担いでくる。足技もうまいし、寝技も強い。でも僕も寝技には自信があるし、秋本さんの攻め口は理解しているつもりです。今度は、立ち技で勝負をかけてみたいと思っています」

 上水監督も秋本を「そう簡単には崩せない相手」とみている。
「だからこそ小手先の戦術ではなく、しっかりと地力をつけることが必要なんです。幸い、まだ時間はもう1年ある。伸びしろはありますから、2、3階級上の人間とどんどん稽古をさせたい」
 この春から東海大は井上康生副監督を迎える。中矢にとっては偉大な先輩であり、憧れの柔道家だ。このタイミングで世界の頂点に立った男の指導を受けられるのは大きなプラスとなるに違いない。

 もちろん代表入りへアピールするには、国内のみならず国際大会での結果が求められる。優勝したグランドスラムパリ大会の後に参加したワールドカップブダペスト大会では準決勝で敗れ、3位に終わった。敗れたのは地元ハンガリーの選手。ゴールデンスコア方式の延長戦に突入し、小外刈りから足をとった。「技あり!」。主審の声に勝利を確信した。ところがジュリーの指摘が入り、足への直接タックルだとみなされたのだ。まさかの反則負けである。スポーツの世界にはつきものののホームタウンディシジョンを味わう羽目になった。
「コーチには“もっと早く勝てた”と言われました。海外では勝てるところで勝っておかないと不利になる。いい勉強になりました」

 ランキングもジャンプアップしただけに、今後は周囲のマークも厳しくなることが予想される。
「相手はまともにこないのが当たり前になる。よりワンチャンスを逃さない鋭さが求められるでしょう」
 上水監督は次なる課題をこう指摘する。最近の中矢は練習のみならず、私生活でも以前より自らを律するようになってきた。
「落ちているゴミを拾ったり、小さいことかもしれないけど、いいことを積み重ねていれば、神様も味方してくれるかもしれない」

 チャンスの神様には前髪しかないと言われる。通り過ぎたら捕まえる後髪はない。ロンドン五輪は2012年7月27日に開幕する。22年の人生で、もっとも大事な500日間。中矢は、その前髪を名前のごとく全力でつかみにいこうとしている。  

(おわり)

<中矢力(なかや・りき)プロフィール>
1989年7月25日、愛媛県出身。5歳から柔道を始め、小学校時代は県内でほぼ無敵の強さを誇る。松山西中を経て、新田高2年の時にインターハイ73キロ級で優勝。翌年(07年)、ロシアジュニア国際を制し、シニアの大会でも講道館杯で準優勝を収める。東海大学進学後は、09年、10年と学生体重別を連覇。10年には3度目の決勝進出で講道館杯を初制覇。その余勢を駆って、同年12月のグランドスラム東京、11年2月のグランドスラムパリに連勝。IJFランキングで一気にトップ10入りを果たし、ロンドン五輪の代表争いに名乗りを上げている。



(石田洋之)
◎バックナンバーはこちらから