1989年、プロ野球ドラフト会議で日本ハムから1位指名を受けたのが、酒井光次郎だ。彼は松山商時代、2年生エースとして春夏連続で甲子園に出場し、卒業後は近畿大へと進学。その近畿大では3年生からエースとなり、全日本大学野球選手権では初優勝の立役者となった。そして、“ドラ1”でのプロ入り――。ここまでは順風満帆な野球人生だった。だが、プロではわずか7年で現役生活に終止符を打った-。その後は台湾へ渡り、五輪代表、プロ球団のコーチを務める。横浜でのスカウト、スコアラーを経て今季、日本の独立リーグの一つ、BCリーグ・信濃グランセローズの投手コーチに就任した。わずか15歳で郷里を離れ、愛媛、東京、台湾、横浜そして長野へ――。波乱万丈とも言うべき酒井の野球人生を追った。
 酒井が野球を始めたきっかけは、小学1年の時、父親の弟である叔父からグローブをもらったことだった。それから父親とキャッチボールをするのが日課となった酒井少年は、いつしか野球に夢中になっていった。地元の野球チームに入ったのは小学3年の時だった。
「入った頃は上級生がたくさんいて、ボール拾いくらいしかさせてもらえないんです。それでも、土日に練習に行くのがすごく楽しみでしたね」。この頃から根っからの野球好きだった。

 中学校に入ると、学校の準硬式野球部に入った。準硬式は全国ではあまり知られていないが、大阪府ではそう珍しくはない。1950年から大阪中学校優勝野球大会が行なわれ、それが最高峰の大会となっている。実は、準硬式野球部出身のプロ野球選手は少なくないのだ。土井正博、岡田彰布、香川伸行、牛島和彦、西山秀二……そして酒井と同級生の桑田真澄も大正中学で準硬式野球部に所属していた。いつしか酒井の耳にも「桑田真澄」の名は届いていた。しかし、3年間で一度も大正中とは対戦したことがなかった。その理由は――。

「単に僕らの中学が弱かったからですよ(笑)。桑田のことは噂で聞いていましたよ。『大正中にすごいピッチャーがいる』ってね。もちろん、同じ大会に出場したこともあります。でも、僕たちはいつもすぐに負けてしまうので……。一つ勝てば、大正中と対戦する組み合わせになったこともありますが、その時も僕たちはあっさりと負けてしまいました。だから、中学時代に桑田が投げたのを見たことはなかったんです」

 そしてもう一人、同級生にはスター選手の原石がいた。桑田とPL学園で“KKコンビ”を組むことになる清原和博だ。しかし、清原もまた酒井にとっては近いようで遠い存在だった。
「もちろん、清原の名前は知っていましたよ。『岸和田にすごいバッターがいるらしい』って話は僕の耳にも届いてきていましたからね。でも、清原はリトルリーグ、シニアリーグでやっていましたから、地元の軟式野球チームや学校の準硬式野球部に入った僕とは無縁だったんです。それに 当時の大阪にはすごい選手がそこら中にゴロゴロいました。だから桑田や清原だけが目立っていたというわけではなかったんです」
 酒井が彼らを強く意識するようになったのは、高校に入ってからのことだった。

 プロ野球選手といえば、少年時代は“エースで4番”であることが少なくない。たとえピッチャーではなくとも、サードやキャッチャー、ショート、センターなど華のあるポジションであることが大半だ。ところが、酒井の経歴はどこまでも異色だ。彼のポジションはファースト。時々、2番手としてピッチャーを務めたこともあったが、同級生には小学校時代からチームメイトの不動のエースがいたため、酒井がピッチャーとして目立つことはなかったようだ。

 しかし、人生はわからない。エースだった同級生はもともと宮崎県出身で、高校は父親の都合で再び宮崎へと戻って行った。彼の進学先は都城高校。同級生には日本ハムで酒井とチームメイトとなる田中幸雄がいた。彼らもまた、酒井と同様、2年時には春夏連続で甲子園に出場した。酒井は甲子園で久々に同級生と再会を果たした。だが、彼のユニホームの背中には背番号はなかった。高校入学後に肩を壊し、レギュラーへの道を断たれていたのだ。その一方で、中学までは2番手でしかなかった酒井は、2年生で既に、全国屈指の強豪校、それまでも春夏合わせて6度の優勝を誇る松山商のエースナンバーをつけていた。中学卒業後、わずか1年で酒井が伝統校のエースになるとは、同級生も夢にも思っていなかったのではないか。いったい、酒井はどのようにしてピッチャーとして開花したのか。そこには一人の監督の存在があった。


酒井光次郎(さかい・みつじろうプロフィール>
1968年1月31日、大阪府生まれ。小・中学校時代は主にファースト。松山商入学後に投手に転向した。1年秋からエースナンバーを背負い、2年の春、夏には甲子園に出場する。春は初戦敗退するも、夏はベスト8進出。準々決勝で“KKコンビ”擁するPL学園と対戦し、1−2で競り負けた。近畿大学時代には3、4年と全日本大学選手権連覇を果たす。1990年、ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目で10勝をマークし、パ・リーグ会長特別表彰を受賞した。97年に阪神に移籍し、その年限りで現役を引退。98年からは台湾ナショナルチームの投手コーチを務め、2004年のアテネ五輪出場に貢献した。05年、統一ライオンズの投手コーチに就任。08年から3年間は横浜のスカウト、スコアラーを務めた。今季、信濃グランセローズの投手コーチに就任した。







(斎藤寿子)
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