2006年11月11日、ぼくはフランスのルマンにいた。
 日が沈んで試合時間が迫ると、川沿いのホテルから歩いてスタジアムに向かった。スタジアムに近づくと、ほのかな街灯の中に、ルマンのユニフォームを着た人たちが歩いているのが見えた。その日の相手は、パリ・サンジェルマンだった。

 スタジアムは8割の入りだった。報道陣用の席は狭く、すでに立ち見が出ていた。この日、ルマンは4−2−3−1のシステムを採用していた。ブラジル人選手のグラフィッチをワントップにして、松井大輔は3枚の左サイドに入っていた。ルマンは松井の反対側、右サイドからの攻撃を繰り返した。しかし、スペースに出すパスはことごとく読まれカットされた。それでも松井の左サイドにはなかなかボールが回らなかった。
 
 開始早々、ルマンの守備陣が乱れ、PKを与えてしまい、先制された。その後は膠着状態が続いた。
 唯一スタジアムが沸いたのは、前半28分だった。グラフィッチがボールをキープして、ヒールキックでパスを出した。松井はボールを受け取ると守備の選手に一対一を仕掛けた。松井はスピードを上げ、一気に抜き去った。相手選手はたまらず後ろから足をかけた――。
「PKだ」
 観客が立ち上がった。ところが、審判は松井を指さした。シミュレーションを取られたのだ。
 前半38分にルマンは同点に追いつき、松井は後半11分に交代した。試合は同点のまま終わった。試合後の松井は浮かない顔だった。
(写真:ルマンのプレス席は狭い。松井目当ての日本人の姿が目立っていた)

「(オリンピック・)マルセイユ戦で飛ばされて腰を打ってから治らないんですよ。ずっと前から腰の痛みはあったんです。疲れたら痛みが出てきたり。でもすぐに治っていた。今回は長引いてますね」
 精神的にはかなり追い込まれているはずだったが、松井は淡々としていた。
「足首の痛みならテーピングを巻けばいい。でも腰は身体の中心だから難しい。それに腰の痛みって、自分にしか分からないですからね」
 痛みに耐えかねて、それまであまり好きではなかったマッサージを受け、さらに中国人の鍼治療にも頼っていた。
「中国4000年の歴史って思って我慢したんですよ。湿布を貼られて、タイガーバームの匂いがすごかった。湿布を取ったら臭くて臭くて。でも痛いのはとれなかった」
 右サイドに攻撃が偏っていたのは、自分の運動量に制限があったことが原因だと認めた。
「右側にスペースがあったこともあるし、ぼくが動けなかったというのもあります。“本当にぼくの調子が悪い時は外してくれ”と監督には話しているのですが、監督からは、“得点に直結する1個のチャンスを作ってくれ”と。エリアの近くでボールをもらって、そこで抜いてシュート、あるいはクロス。だからエリアの近くでボールをもらうように指示されてます。ただ、かなり難しい。本来ぼくはボールを触ってリズムを作っていくほうなんですよね。この試合でも、いい形でぼくにボールが来たのは、2、3回。その中で得点に結びつけろというのはかなり難しい」

 あの倒されたのはファールだったねと話をかえると、表情が緩んだ。
「“やった、PKだ”と思ったら、審判に“立て”って言われた。それでシュミレーション。“俺じゃねぇだろ”ってフランス語で言ったんですけれど、全然聞いてくれなかった」
 1試合の中で、ほんの数回の好機をいかに得点に結びつけるか。それを欧州のトップリーグで集中力を磨いていた松井が、ドイツW杯で日本代表から外れたことがつくづく勿体なかった。
 年明けには、トルコでジーコを取材することになっていた。別れ際、「ジーコになんで君を選ばなかったのか聞いておくよ」と言うと、松井は「宜しくお願いします」と大笑いした。

 後日、トルコでぼくはジーコにこう尋ねた。
「ぼくは日本代表監督時代、あなたのやり方には基本的に賛成だったし、好意的に書いてきたと思っている。ただ、1点だけ腑に落ちないことがある。それは松井をドイツW杯に連れて行かなかったことだ」
 すると、ジーコは真剣な顔になった。
「彼はオプションの1人だった。最後の最後までぼくのリストに入っていた。ただ、彼と同じポジションにはすでに何人も選手が揃っていた。メンバー発表の直前、最後まで悩んだのは2人の選手の扱いだった。阿部(勇樹)と松井だ。今後の日本サッカーを考えると、2人のうちどちらかは連れて行きたかった。試合に出なくてもW杯の雰囲気を味わうだけでも、大切だったかもしれない。しかし、そうなるとディフェンダーを1人落とさなければならない。フォワードは5人を連れて行くという選択をまず決めた。体調が万全ならば久保(竜彦)が入り、巻が落ちた。5人のうちの1人、玉田(圭司)は中盤を兼ねている。仮に玉田を外せば、松井あるいは阿部が入ったかもしれない。あるいは遠藤(保仁)を外すか……。玉田、遠藤はこれまで代表に多大なる貢献をしてくれた。そうした選手を不公平に扱ってはならない。それはぼくの流儀に反する。苦渋の決断だったよ」
(写真:ジーコ「松井を外したのは苦渋の選択だった」)

 それから3年後――。
 2010年の南アフリカW杯の日本代表で、松井は中心選手となっていた。ドリブルを仕掛け、相手の守備陣を恐れさせることも出来る一方、守備にも走り回っていた。
 チームの中で何が出来るか、自分の役割は何なのか――ジーコはそれを「試合の流れを読むことのできる選手」と表現していた。
 得点に繋がるドリブルという武器を松井は無駄に使わなかった。その凄みを漂わせながら、守備に身体を張る松井は、試合の流れを読むことのできる選手だった。
 1つの大会を見送ったことは、決して無駄ではなかった。ぼくは南アフリカのピッチに立つ彼の姿を見てそう思った。

(終わり)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入り著書多数。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。2010年2月1日『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)を刊行、さらに4月『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)を刊行。






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