1989年のプロ野球ドラフト会議といえば、史上最多の8球団から指名を受けた野茂英雄だ。クジ引きの結果、野茂の交渉権は仰木彬(故人)監督率いる近鉄が獲得。翌年、野茂は期待通りの活躍を見せた。しかし、この年のドラフトで1位指名を受けた選手、特にピッチャーは野茂の外れ1位も含め、翌年のルーキーイヤーから活躍した者が多かった。セ・リーグでは中日の与田剛と広島の佐々岡真司が激しいセーブ王争いを繰り広げれば、パ・リーグでは西武の潮崎哲也がセットアッパーとしてチームの優勝に大きく貢献した。そして忘れてならないのが、唯一先発として堂々と野茂との新人王争いに挑んだ日本ハムの酒井光次郎である。
 高校卒業後、酒井は近畿大学へと進学した。1、2年時には先輩にドラフトで指名されるほどのピッチャーがいたこともあり、酒井がレギュラーを獲得したのは3年からだった。しかし、その年から酒井はエースとしてチームを牽引した。関西学生野球リーグでは春夏ともに優勝。全日本大学選手権では2回戦の途中から軸足となる左足の靭帯を痛めながら、チームを初の優勝に導いた。翌年は春のリーグ戦から、なんと80回1/3無失点記録を樹立。チームも春、秋ともにリーグ戦を制すると、全日本選手権では連覇を達成した。

 当然、酒井は大学生サウスポーNo.1として、プロからも注目されていた。だが、実は当時、酒井自身はプロに行ける器だとは思っていなかったという。自分は社会人に進むべきだと考えていた。そんな酒井が、プロへの道を考え始めたきっかけを与えたのが、当時の近畿大野球部・松田博明監督(故人)の言葉だった。
「自分は体も大きくないし、スピードがあるわけでもない。大学まではなんとか通用しましたが、プロはそんな甘いところではないと思っていました。夏には日本生命から内定をもらっていましたし、自分としてはそこに行くつもりでいました。ところがある日、松田監督にこう言われたんです。『オマエは金属よりも木製の方がいいんじゃないか。ちょっと考えてみろ』って。当時、社会人はまだ金属バットを使っていましたからね。力がある打者の打球は、打ち損じでも、簡単に飛んでいくんです。でも、プロは木製ですから、そうはいかない。だから、僕は社会人よりもプロ向きだろうと。それからですね。プロを考え始めたのは」
 その年の秋、酒井は野茂の外れ1位ではあったが、日本ハムに1位指名を受けた。酒井は一切迷うことなく、入団を決めた。

 翌春、キャンプが始まった。一軍キャンプに帯同した酒井は、それまでテレビの世界だったプロの選手を目の前に緊張の連続だった。
「当時はエースの西崎幸広さん、巨人から移籍してきた角盈男さん、ベテランの大島康徳さんらがいて、『うわぁ、こんなすごい人たちと一緒にやるんだ』と思ったら、正直怖かったですね。もう、どうなることかと思いましたよ」

 しかし、開幕一軍入りを果たすと、4月30日のダイエー戦、プロ初の先発マウンドに上がった。それまでリリーフでは投げていたものの、やはり先発の緊張感はそれまでとは比べものにならなかった。そんな酒井の心をほぐしてくれたのが、ベテランキャッチャーの若菜嘉晴だった。「オレのサイン通り、思いっきり投げればいいから」という言葉に背中を押された酒井は、5安打1失点完投勝ち。ルーキーとは思えない完璧なピッチングで、野茂さえも達成できなかったプロ初先発初勝利を挙げた。

 それでも酒井はプロでやっていけるとは思っていなかった。ようやく、手応えをつかみ始めたのはその年の夏のことだった。8月に4勝を挙げ、初めて月間MVPに輝いたことで、プロとしての自信を得ることができた。結局その年、酒井はチームで4番目の10勝(10敗)を挙げ、チームに大きく貢献した。結局、新人王は18勝(8敗)を挙げた野茂が獲得したものの、43試合を投げて7勝4敗8セーブ、防御率1.84と主にセットアッパーとして日本一に大きく貢献した潮崎、22本塁打を放った石井浩郎(近鉄)とともに「会長特別表彰」を受賞した。セ・リーグでも与田に新人王を譲った佐々岡が「努力賞」を受賞するなど、この年のルーキーの活躍ぶりは今もなお語り継がれている。

 酒井は2年目も6勝(12敗)を挙げ、日本ハムの主力となりつつあった。その酒井を一番近くで支えてくれたのが、バッテリーを組んだ若菜だった。
「若菜さんからは本当にたくさんのことを学びました。特に、ストレートの重要性を教えてもらったんです。僕はスピードがありませんから、キレとコントロールで勝負するタイプ。だから、変化球を磨くことばかり考えていた。でも、僕のようなタイプのピッチャーは、より直球を大事にしなければならないんです。つまり、いい直球があれば、それだけ変化球が生きますから。そのことを若菜さんに教えてもらったからこそ、プロでやれたのだと思っています」

 だが、その若菜が現役を引退した3年目以降、奇しくも酒井は苦しいシーズンを送り続けることとなった。4年目には左足首にいわゆる運動障害の症状が出始め、それが原因でシーズン途中には先発からセットアッパーへの転向を命じられた。さらに、左足をカバーしながら投げていたことで大きな負担がかかった腰を痛めた。すると、今度はその腰をカバーすることで、ピッチング時の左右の足の使い方が変わり、バランスを崩した。5年目オフには左足首を手術した。再起をかけて臨んだ6年目は開幕直前にまたも腰痛に見舞われた。重症のヘルニアだった。その年、酒井は結局1試合も登板することはできず、翌年オフに自由契約となった。それでも諦め切れない酒井は入団テストを受け、阪神に入団した。だが、やはり本来のピッチングを取り戻すことはできず、その年のオフ、現役引退を決意した。
「まだ30歳でしたからね。自分ではもっとやりたいと思っていましたし、やれると思っていました。でも、その気持ちに体がついていくことができなかったんです」
 プロ生活は、わずか8年で幕を閉じた。

 その後、台湾ナショナルチームの投手コーチ、台湾プロ球団・統一ライオンズの投手コーチを経て、2008年からは横浜のスカウト、昨年は同球団のスコアラーを務めた酒井は、今年からプロ野球独立リーグのベースボール・チャレンジ(BC)リーグ・信濃グランセローズの投手コーチとなった。チームには10人のピッチャーが在籍する。そのほとんどが甲子園や神宮のマウンド経験がない選手たちだ。しかし、彼らは本気でNPBを目指している。その彼らを一人でも多くNPBへと送り込むことが現在の酒井の目標だ。そのためには、いかに故障者を出さないことが重要だと考えている。

「自分は現役時代、ケガが多かったですからね。いくら実力があっても、ケガをしてしまえば何もならない。やはり資本は体ですよ。それと、横浜でスカウトやスコアラーをしていましたから、NPB関係者が選手のどういうところを見て興味をもつのか、そのポイントもわかっている。そういうところも選手に伝えていきたいですね」

 台湾時代には投手コーチとしてナショナルチームをアテネ五輪へと導いたこともある酒井だが、日本球界での指導は今季が初めてとなる。
「やっぱり現場が一番だね」
 野球少年そのままの笑顔でそう答えた酒井。根っからの野球好きは野球を始めたばかりの頃と全く変わっていない。選手と指導者、立場は違えど、酒井の野球への挑戦はこれからも続く。

(おわり)

酒井光次郎(さかい・みつじろうプロフィール>
1968年1月31日、大阪府生まれ。小・中学校時代は主にファースト。松山商入学後に投手に転向した。1年秋からエースナンバーを背負い、2年の春、夏には甲子園に出場する。春は初戦敗退するも、夏はベスト8進出。準々決勝で“KKコンビ”擁するPL学園と対戦し、1−2で競り負けた。近畿大学時代には3、4年と全日本大学選手権連覇を果たす。1990年、ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目で10勝をマークし、パ・リーグ会長特別表彰を受賞した。97年に阪神に移籍し、その年限りで現役を引退。98年からは台湾ナショナルチームの投手コーチを務め、2004年のアテネ五輪出場に貢献した。05年、統一ライオンズの投手コーチに就任。08年から3年間は横浜のスカウト、スコアラーを務めた。今季、信濃グランセローズの投手コーチに就任した。







(斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから