「Wエースとしてがんばろう」
 福島由登と奥村翔馬の入学当初からの約束――1年の時、奥村は福島の筆箱にこの言葉を書いた。母・祥子には未だに忘れられない出来事として記憶されている。
「筆箱に書いた字なんて、普通なら2、3年も経てば、薄くなってほとんど消えてしまうと思うんですけど、結局卒業するまで消えなかったらしいんですよ。それほど2人の絆は強かったのかもしれませんね」
 2008年は、その“Wエース”にとって忘れられない夏となった。
 最後の夏の大会を前に、背番号が発表された。エースナンバーはやはり、それまでと同じ福島に手渡された。そして、奥村にもそれまで同様、背番号「9」が渡された
「正直、エースナンバーは福島だってわかっていました。それでもピッチャーとしては憧れの背番号ですからね。やっぱり悔しい気持ちはありましたよ。でも、アイツの実力は認めていましたから、納得はしていました」
 奥村は卒業式の日まで、その悔しい気持ちを隠し通した。福島の前では決して態度にはあらわさなかった。

 一方、福島もまた奥村には「絶対に負けたくない」と思っていた。
「アイツはバッティングがいいんですよ。打線もクリーンアップを張っていましたしね。だから、なおさらピッチャーとしては負けないぞと思っていました」
 こうして切磋琢磨してきたからこそ、2人はお互いを信頼しきっていた。2年の秋からずっと、苦しい試合は2人の継投で乗り切ってきたのだ。

 奥村との勝利の方程式

 福島にとって2度目の甲子園は雨から始まった。初戦の日田林工(大分)戦、先発の福島は当時の自己最速となる144キロをマークするなど、非常に調子がよかった。打線も2回までに4点を奪い、完全に大阪桐蔭ペースで試合は進んだ。ところが、2回裏の途中、福島がバッターボックスに入った瞬間、雷が鳴り出した。試合は中断となり、30分ほど待った末に、降雨ノーゲームとなった。しかも、この日の3試合目に当たるゲームだったにもかかわらず、なんと割り当てられたのは翌日の第1試合。両チームともに、早々に宿泊所へと帰り、体を休めることに専念した。

「実は甲子園では雨で流れた試合は負けていたチームが再試合では勝つというジンクスがあったんです。でも、僕らは全然気にしていませんでした」
 その言葉通り、翌日の試合も序盤から打線が効率よく得点を積み重ね、試合の主導権を握った。福島は初回に守備のミスが絡んだ失点を喫したものの、2回以降は危なげないピッチングで日田林工打線を封じた。結局、16−2で大阪桐蔭が快勝。勢いをつけるには十分なスタートを切った。

 しかし、2回戦の金沢戦は一転、延長にまでもつれこむ大接戦となった。この日も先発のマウンドに立った福島だったが、ボール先行の苦しいピッチングが続いた。3回を終えて3−1と大阪桐蔭がリードする。しかし、4回表、福島が4安打を浴び、一挙4点を奪われ、逆転を許した。不調の福島を助けたのは、やはり、奥村だった。5回からマウンドに上がった奥村は7回までの3イニングを無失点に封じ、悪い流れを断ち切った。そして8回から再び福島がマウンドへ。すっかり立ち直った福島は、バックに助けられながら、凡打の山を築いていった。

 2人の力投に味方打線も奮起した。5回裏に4番・萩原圭悟のタイムリーで1点差に迫ると、8回裏には現在、埼玉西武で活躍している1番・浅村栄斗に同点弾が飛び出し、試合を振り出しに戻した。そして、そのまま延長戦へと突入する。10回表、1死の場面、抜けるかと思われた二遊間の強烈なゴロを、ショート浅村が好捕した。当時から守備に定評のあった浅村は、クルッと一回転しながら一塁へ送球。プロ顔負けのファインプレーでピンチの芽を摘み取った。

 実は1回戦、相手の1点目はその浅村のエラーが絡んだものだった。申し訳なさそうに返球する浅村に福島は何食わぬ顔で「OK」とだけ言った。
「エラーなんて、全く気にしないですよ。だって、いつも守ってくれているんですから」
 ピッチャーもバックもお互いを信頼していた。だからこそ、一つのミスでチームに亀裂など起きはしない。それがこの年の大阪桐蔭の強さだった。

 10回裏、大阪桐蔭は先頭打者がヒットで出塁すると、福島が送りバントを決めて1死二塁とした。この試合、2ホーマーを放っていた浅村が敬遠されると、次打者も四球で出塁し、1死満塁と絶好のチャンスを迎えた。ここで打席にはキャプテンの森川真雄が入った。森川は初球、高めのボールを迷わず叩くと、ボールは前進守備をしいていた三遊間を抜けた。三塁ランナーが悠々とホームに返り、キャプテンの一振りで大阪桐蔭がサヨナラ勝ちを収めた。

 続く3回戦の東邦(愛知)戦は中盤まで大阪桐蔭が7−0と優位に試合を進めた。福島もほぼ完璧なピッチングだった。ところが、終盤になるにつれ、福島は疲労の色を見せ始める。7回裏、2死から連打を浴び、満塁のピンチを招いた。ここはなんとか無失点に封じたものの、続く8回裏、ボールが高めに浮いたところを相手打線にとらえられる。1死から2番打者にホームランを打たれると、その後も連打を浴び、1死一、二塁となる。ここで西谷浩一監督は福島をライトの奥村とスイッチした。マウンド上でグラブを交換しながら、福島は「すまん」と奥村に告げた。表情には表れなくとも、奥村には福島の悔しさは手に取るようにわかった。「まかしとけ」。そう言って、奥村はマウンドに上がると、なんとか最少失点に抑えた。

 だが9回裏、大阪桐蔭は再びピンチを迎えた。先頭打者を浅村の一塁への悪送球で出すと、次打者にはヒットを打たれ、無死一、三塁となった。ここで再び福島がマウンドに上がった。2度目のグラブ交換。今度は奥村が「すまん」と福島に告げた。福島は笑顔で「おう、気にするな」と答え、落ち着き払った様子でマウンドに上がった。しかし、言葉や表情とは裏腹に、福島のボールにいつものキレはなかった。バックの好守備に助けられ、ようやく2死を取るも、4番打者にレフトオーバーの2点タイムリーを浴び、2点差に迫られた。なおも2死二塁。だが、なんとか次打者をレフトフライに打ち取り、大阪桐蔭がベスト8進出を決めた。

 準々決勝の報徳学園(兵庫)戦も、前半に打ち込まれた福島の後を受け継いだ奥村が中盤を抑え、そして最後は福島が抑えるという“Wエース”の継投で凌ぎ切った。そして準決勝の横浜戦では自ら“ベストピッチング”と語った福島が、8安打を打たれながらも全て最少失点に抑える粘りのピッチングで、甲子園で初の完投勝利を収めた。

 不思議な感覚に襲われた最後の夏

 迎えた決勝戦。相手は前年、春に優勝、夏はベスト4に輝いた常葉菊川(静岡)だった。同校はその大会でも準決勝までの4試合で通算35得点を叩き出し、大会屈指の強打を誇っていた。一方、大阪桐蔭も準決勝までの全5試合で2ケタ安打をマークし、通算45得点を挙げていた。それだけに、下馬評では両校の打ち合いが予想された。

 ところが、フタを開けてみると、大阪桐蔭のワンサイドゲームとなった。初回、奥村の満塁ホームランで主導権をつかんだ大阪桐蔭は、6回には打者10人の猛攻で一挙に6得点。7回には4番・萩原がダメ押しの一発を放つなど、打線が21安打17得点と爆発。投げては福島が5連投とは思えないほどの快投で常葉菊川打線を散発5安打に抑え、夏の決勝での完封は松坂大輔(レッドソックス)が横浜のエースとしてノーヒットノーランを達成した1998年以来となる完封勝ちでの優勝を達成した。

 大会を通して福島は不思議な感覚を味わっていた。
「甲子園では、どんなにリードされていても、劣勢の場面でも、全く負ける気がしなかったんです。今考えても、本当に不思議です」
実は奥村も同じだった。「例えば、2回戦の金沢戦は一番、危ない試合で、一つのヤマ場だったと思います。途中、ベンチで泣いているヤツもいたくらいでしたから。それでも、僕の中では『最後に勝つのはオレらだ』と信じていました。後にも先にも、あんな感覚になったことはないですね」。
“甲子園には魔物が棲んでいる”とよく言われるが、彼らには魔物が勝利の女神に見えていたのかもしれない――。

 あれから3年の月日が流れた。高校卒業後、福島は青山学院大学に進学した。1年春からベンチ入りし、5月にはリーグ戦デビューを果たした。チームは1年秋に東都リーグ1部で最下位となり、国士舘大との入れ替え戦にも敗れて1984年以来、52シーズンぶりに2部に降格した。しかし、翌春のリーグ戦では2部で優勝し、立正大との入れ替え戦を制して、見事に1シーズンで1部復帰を果たした。その原動力となったのが、2年生エース福島だった。リーグ戦でチーム最多の10試合に登板し、リーグ最多の6勝(1敗)を挙げた福島は、最高殊勲選手、最優秀投手に輝いた。そして入れ替え戦では第1戦、第3戦に登板。第1戦で1失点完投した福島は、1勝1敗で迎えた第3戦で無四球5安打完封勝ちを収めた。

 順調にステップアップしていると思われたが、2年秋はシーズン終盤に右肩を痛めて戦列を離れたこともあり、1勝5敗に終わった。その後も痛めた右肩の調子は戻らず、オフに十分な投げ込みができなかった。そのため、今春はシーズン途中で自ら先発からリリーフへの転向を志願した。

 しかし、その右肩も完治の方向に向かっている。9月に開幕する秋のリーグ戦には間に合う予定だ。プロを目指す大学生にとって、3年の秋は最も重要なシーズンともいえる。来年のドラフトに向け、プロのスカウトマンたちが目を光らせているからだ。もちろん、福島もそのことは百も承知だ。果たして、秋はどんなピッチングを見せてくれるのか――。プレッシャーがかかればかかるほど、結果を残してきた福島だけに、活躍が期待される。

 父親がつけた「由登」という名前には「自由に上へと上へと登っていってほしい」という願いが込められている。15歳で地元を離れて大阪の高校に野球留学し、そこで全国制覇を成し遂げた福島にはピッタリの名前だ。彼はこれからも自分が信じた道で、上を目指していくことだろう。

(おわり)

福島由登(ふくしま・ゆうと)プロフィール>
1990年5月20日、徳島県生まれ。小学1年から野球を始め、中学時代は徳島ホークス(ヤングリーグ)に所属。中学3年時には全国大会に出場した。大阪桐蔭高では1年秋からベンチ入りし、2年春の選抜では甲子園で2度のマウンドを経験した。3年夏には決勝に進出し、98年の松坂大輔(横浜)以来となる完封勝ちを収め、17年ぶり2度目の全国制覇に貢献した。2009年、青山学院大に進学し、現在はチームの主力として活躍している。178センチ、78キロ。右投右打。







(斎藤寿子)
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