道具か、権利か。
 日本人にとって、長い間スポーツは道具だった。国威発揚のための道具、企業や学校の知名度アップのための道具。なにかイベントがあるたびにすぐ経済効果が言われるのは、スポーツを景気刺激のための道具と見る人が多いからだろう。
 なでしこが世界一になったことで、女子サッカーに対する関心が急速に高まっている。先週末の神戸では1万7000人を超える観客がスタンドを埋めた。国民栄誉賞が贈られるのもほぼ確実だという。ここにきて、彼女たちが置かれてきた環境についても改善が必要だという認識が一般的になってきた。
 悪いこと、ではもちろんない。だが、そうした空気を生んだ源がスポーツを道具としか考えない発想にあるのだとしたら、無邪気に喜んでもいられない。

 欧米のようにスポーツを人権と考えるのであれば、究極的な思想は種目、成果、年齢、次元を問わない平等ということになろう。職業に貴賤がないように、スポーツにも貴賤、優劣はない。天はスポーツの上にスポーツを作らず、である。
 どれほどマイナーな競技であっても、弱かろうとも、老いていても幼すぎても、そして目を覆いたくなるような低レベルであっても、プレーしたい人、観戦したい人が楽しめる環境――。経済的な余裕がある国ほど、現実を理想に近づけようとしている。少なくとも、女子W杯を開催したドイツはそうだった。だから、なでしこをはじめとする各国の女子代表選手は最高のサッカー専用スタジアムで、大勢の観衆の前でプレーすることができた。
 なでしこに国民栄誉賞を贈るのもいい。環境改善のために声を上げるのもいい。だが、いまの日本に最も欠けているのは、スポーツとは道具ではなく権利だという発想である。

 国がなでしこを称賛するのはいい。だが、そのことによって、他のスポーツがしわ寄せを受けたりしないような配慮は持ってほしい。サッカー界が女子サッカー人口を増やすために尽力するのは当然としても、国がなすべきはすべてのスポーツをする、見る権利を守り、拡大させていくことである。サッカーが栄えることで他のスポーツが滅びるなどという悲劇は、断じて見たくない。
 
 すでにバレーボールやバスケットボールのファンの間からは、女子サッカー脅威論めいたものが聞こえてきている。彼らの、彼女たちの不安を現実のものにしてはいけない。なでしこのW杯優勝が、女子サッカーはもちろんのこと、すべてのスポーツに善なる影響を及ぼした――そう後に振り返られるような日本であってほしい。

<この原稿は11年7月28日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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