「オレ、本当に来たんだな……」
 2008年9月6日、北京パラリンピック開会式。9万人を収容できる巨大スタジアム、通称「鳥の巣」(北京国家体育館)に藤本佳伸はいた。開会式が始まっておよそ2時間後、ようやく日本代表は待機していた広場から競技場へと続く通路を移動し始めた。徐々に入口の光が大きくなり、観客の歓声が聞こえてくる。藤本は胸の高鳴りを抑えることができずにいた。
「JAPAN!」「ウワアアァァァ!」
 地響きのようにこだまする大歓声に吸い込まれるように、藤本は競技場へと入っていった。突然、燦々と輝く無数のライトが藤本を襲った。そして次の瞬間、パッと視界が開けたかと思うと、世界各国の国旗を振った観客が目の前に飛び込んできた。それを見た藤本は自分が今いる場所を実感した。
「よし、悔いを残さずに思いっきり楽しもう!」
 藤本の初のパラリンピックがスタートした。

 感動の開会式から3日後、藤本は初戦を迎えた。その前の晩、藤本は丸山弘道コーチと2人で戦略を練った。いきなりのシード選手との対戦に、藤本は緊張を隠し切れずにいた。すると、丸山は藤本にこう言った。
「やることをやってきたんだから、オマエは絶対に大丈夫だ。だから勝敗のことを考えるよりも、1ポイント1ポイントを無心でやってこい」
 静かな落ち着き払った口調だった。だが、それが逆に強く、熱いものを感じさせた。
「明日は自分の力を出し切ってきます!」
藤本は緊張感が闘志へと変わっていくのを感じていた。

 運と実力でつかんだ16強

 翌朝、藤本のテンションは最高潮に達していた。それは丸山の予想通りだった。
「初戦の朝、藤本は舞い上がっていました。いつも以上に支離滅裂なことを言っていましたからね(笑)。でも、どの選手も初戦はそうなってしまうんですよ。必死にやってきた4年間の思いがありますからね。特に藤本は初めてのパラリンピックでしたから。だから、とにかく『落ち着け!』と言いました。試合前にはだいぶ冷静になっていました。『いってきます』と握手した時、『よし、大丈夫だな』と確信しました」

 相手はこれまで一度も勝つことができず、4カ月前のジャパンオープンでもファイナルセットの末にもつれこみながら競り負けた選手だった。パワーのあるフォアハンドで打たれれば、たちまちポイントを取られてしまう。そこで藤本は相手のバックを集中的に狙った。ミスを誘いながら、チャンスを待つ。これが藤本の作戦だった。第1セットも第2セットも、0−3と追いかける展開となったが、藤本は最後まで必死にボールを追いかけ、しつこさと粘り強さで徐々に自分のペースに相手を引きずり込んだ。結果は7−5、6−4で藤本のストレート勝ち。セットポイントもマッチポイントも一発で入れたことで、さらに喜びは一入だった。
「格上相手に、あんな試合ができるんだなと。自分でも正直、驚きました」

 スタンドには丸山をはじめ、国枝慎吾や斎田悟司らチームメイト、両親、当時お世話になっていた会社の上司が詰めかけていた。
「みんなが見ている前で勝てたことが何より嬉しかった。もちろん、プレッシャーはありましたよ。でも、それが体が硬くなるような緊張感ではなく、いい高揚感になっていた。『これ以上の場はないな』と思いながらプレーしていたんです。そこでシード選手に勝てたんですから、もう最高でしたよ」

 試合後、藤本もチームメイトも大はしゃぎだった。そんな中、一人冷静な姿勢を崩さなかったのが、丸山だった。丸山は「ほら、勝っただろう?」と当然のように言っただけだった。実は、4年前のアテネ大会での反省が丸山をそうさせていたのだ。彼にとっても初めてのパラリンピックだったアテネでは、国枝と斎田がダブルスで金メダルを獲得した。これは日本の車いすテニス界にとって快挙のなにものでもなかった。だが、シングルスでは国枝、斎田ともに準々決勝敗退を喫していた。大会後、丸山は選手とともに勝っては喜び、負けては落ち込んだ自分を反省した。コーチである自分は常に冷静さを保たなければいけない。そう痛感したのだ。だからこそ、北京ではどんな状況であろうとも、常に冷静でいることを自らに課していたのだ。

「藤本が勝った時、本当は一緒に喜びたかった。でも、まだ次がある。だから努めて冷静にふるまって、『オレはもう次の試合のことを考えているよ』という態度でいました。コーチである自分の仕事は選手が目標を達成できるように導くこと。藤本の目標はベスト16でしたから、それを達成して初めて『あぁ、徳島から千葉まで来てよかったな』と言えると思っていたんです」

 翌日、2回戦が行なわれた。その日の藤本の顔は青白く、プレーにいつもの気迫が全く感じられなかった。それは快進撃に満面の笑顔を見せていた前日とは、あまりの変貌ぶりだった。いったい、彼に何が起きていたのか。
「前日の夜、丸山コーチと2人でご飯を食べに行ったんです。その時は元気だったのですが、夜になって急に気持ちが悪くなって、吐き出してしまったんです。さらにお腹にも来て……。ようやく寝られたのは朝の4時頃。その頃にはもうお腹の中には何も残っていない状態でした。朝になって丸山コーチに話をして、医務室に連れて行ってもらいました。おそらく軽い食あたりだったと思うんですけど、何で急になったのか……。丸山コーチには『オマエは小学生か!?』って言われました。ほら、よくいるでしょ。はしゃぎすぎて、翌日になって寝込んじゃう子。僕もシード選手に勝ったことが本当に嬉しくて……。しかもみんなが祝福してくれるもんだから、ちょっと喜びすぎちゃったのかなって(笑)」

 今となっては笑い話だが、当時の藤本には一大事だった。十分に食事をすることができず、さらに寝不足も加わって、体に力が入らない。なんとか第1セットを6−4で奪ったものの、第2セットに入ると動きが止まってしまった。3−6で第2セットを失い、勝負はファイナルセットに持ち込まれた。だが、藤本にはほとんど体力は残っていなかった。

 そんな藤本に天から救いの手が差し伸べられた。一時止んでいた雨が、再び降り始めたのだ。試合は中断され、藤本たちはラウンジで待機となった。しかし、待てど暮らせど雨は一向に止む気配がない。結局、試合は翌日に持ち越された。藤本にとって、まさに恵みの雨となった。翌日、第3セットが行なわれた。その頃にはもう藤本の体はほぼ回復していた。1セットのみで勝負が決まるという難しいゲームだったが、藤本は6−4で競り勝った。運にも助けられた藤本は見事、目標のベスト16 進出を決めたのだ。

 3回戦の相手は世界のトップ10に入る強豪だった。結果的に銅メダルを獲得したその相手に藤本は1−6、1−6のストレート負けを喫した。「力で押されてしまった」と自らも語るほど、完敗だった。だが、試合後の藤本は清々しさを感じていた。
「パラリンピックは一番の目標であり、ずっと夢みてきた舞台。そこでプレーできるんだから、精一杯やって、最後は笑って帰ろうと思っていたんです。実際に北京で過ごした日々は本当に楽しかった。勝つこともできたし、十分に満喫することができました」

 その時、藤本は4年後のロンドンを見据えてはいなかった。北京で一区切りをつけようとしていたのだ。その彼に待ったをかけたのが丸山だった。
「私としては藤本にはロンドンに挑戦してもらいたいという気持ちがありました。だからすべての競技が終わって閉会式を迎えた日、藤本には『もう一回、一緒にやらないか』と言ったんです」

 もちろん、丸山の言葉は藤本にとって飛び上がるほど嬉しかったに違いない。だが、車いすテニスプレーヤーがパラリンピックを目指して4年間を過ごすのは、そう簡単なことではない。1年の半分以上は海外を転戦し、ポイントを稼がなければならない彼らにとって、安定した収入を得るには、しっかりとしたサポート体制が必要だ。だが、日本ではまだ障害者スポーツへの理解は薄い。スポンサー集めは容易ではないのだ。

 だが、丸山はスポンサー企業探しにも全面的な協力を約束したうえで、藤本にこう言ったという。
「オマエが一番輝ける場所はコートじゃないのか?」
「そうですよね……」
 この言葉に心を動かされたのだろう。帰国後、藤本は現役続行を決意した。

 人として、プレーヤーとしての魅力

 昨年、スポンサー探しをしていた藤本に思いがけない人から連絡が入った。彼が徳島で車いすテニスを始めた時、初めて専任コーチとして指導してくれた安藤司からだった。安藤が岡山へ転勤したのを機に、2人は疎遠になっていた。だが、安藤にとって藤本は忘れられない存在だった。時折、風の便りで藤本の活躍を聞くと、「頑張っているんだな」と嬉しく思っていた。

 その安藤が昨年4月、独立をし、テニススクール「andy tennis」を立ち上げた。それを機に彼はある行動に出た。藤本にスポンサーとして協力したいという旨を伝え、自ら千葉へと出向いたのだ。安藤が岡山へと転勤して以降、9年間で2人が会ったのは1度きり。それも岡山で開催された大会で偶然、安藤が藤本を見かけたというものだった。2人は互いの連絡先も知らなかったという。安藤が知人を介して藤本の連絡先を探し当ててまでスポンサーを買って出たのは何故なのか。

「同級生ということもあって、僕の心のどこかに藤本さんが残っていたんです。頑張っている藤本さんに対して自分も何かしたいと思っていたのですが、それまでは何もできませんでした。それで自分が独立したのを機にスポンサーになろうと思ったんです」
 ここで一息ついた安藤は、少し恥ずかしそうに「でも、それは半分」ともう一つの理由を語った。

「もう半分は自分のためでもあったんです。それまで企業に所属して、大勢の中にいたのに、独立して一人ぼっちになってしまった。やっぱり、どこかで不安な気持ちがありました。でも、一人で戦い続けている藤本さんのスポンサーになることで、自分も頑張れるんじゃないかって思ったんです。スポンサーなのに、簡単にやめるわけにはいきませんからね。だからいい意味で自分へのプレッシャーにもなるんじゃないかって」
 わずか1年足らずの付き合いで安藤は藤本というプレーヤーに惚れ込み、自らの人生に必要と感じていたのだ。
 
 藤本に魅力を感じているのは、丸山も同じだ。
「選手は皆、パラリンピックでの金メダルを目指している。しかし、私はそれがゴールだとは思っていません。いつか、人生を振り返った時に、自分に金メダルをあげられるようになってほしい。『よくやったな』と思ってほしいんです。そのために、今をどう生きるかが大事で、これが将来を左右するんです。しかし、これは決して簡単なことではない。実践できる人は限られている。藤本はそれができる選手の一人ですよ。彼は今でも十分に立派ですが、さらにその立派さの質を上げていってほしいと思っています」

 ロンドンパラリンピックまで1年を切った。来年の5月までの世界ランキングで日本選手の上位4人までに入れば、代表の切符が獲得できると予想されている。現在、藤本は国枝、斎田に続いて日本人では3位だが、最近では20代の若手が台頭してきている。35歳の藤本には苦しい状況となりつつあるのではないか。だが、当の本人は全く気にしている様子はない。
「若手が出てくるのはいいことだと思います。でも、世界のトップ10の中には40代後半や50代中盤の選手だっている。そういう選手を見ると、技術もそうですけど、やっぱり精神力が強い。『自分はまだまだだな』って思うんです。そう思えているうちは成長するんじゃないかな」

 不撓不屈――どんな苦労や困難にもくじけない。これが藤本のモットーだ。
「やっぱり時には悩むこともあります。僕、失敗すること、本当に多いですからね。でも、きっとそれが糧となって自分の成長につながっている。だからこそ、今の自分があるのだと思っています」
 そう語る藤本の目はまるで少年のように輝いていた。本当にテニスが好きなのだろう。そして今、毎日が充実しているのだろう。そう感じずにはいられない目だった。
 藤本佳伸、35歳。ロンドンへの切符をつかむため、今日もまた彼は世界のどこかで戦っている。

(おわり)

藤本佳伸(ふじもと・よしのぶ)プロフィール>
1976年5月13日、徳島県生まれ。小学3年から器械体操を始め、県内随一の名門・鳴門高に進学。しかし、2年時に鉄棒から落下し、下半身不随に。その後は車いす生活を余儀なくされる。大学卒業後、23歳から車いすテニスを始める。より高いレベルを目指し、2005年に千葉県に生活の拠点を移し、パラリンピアンを数多く輩出しているTTC(テニストレーニングセンター)に通い始める。08年北京パラリンピックに出場し、シングルス、ダブルスともにベスト16進出を果たす。26日現在、世界ランキングはシングルス16位、ダブルス13位。
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(斎藤寿子)
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