Jリーグに来たブラジル人選手は数多い。知名度で順に並べていくならば、ジーコ(元鹿島)、カレッカ(元柏)、レオナルド(元鹿島)、ジョルジーニョ(元鹿島)、エジムンド(元浦和)、ベベット(元鹿島)――。
 こうした選手と比べると、幾分地味な印象になるのは否めないが、ブラジル代表での実績を考えればセザール・サンパイオ(元横浜フリューゲルス)も上位に入っていい。
(写真:横浜フリューゲルスなどで活躍したセザール・サンパイオ 撮影:西山幸之)
 サンパイオは、1968年3月にサンパウロで生まれた。最初のプロ契約は、86年にサントスFCと結んだ。この時、一緒にトップチームに昇格したのが、三浦知良(現横浜FC)である。三浦は、サンパイオよりも一つ年上にあたる。
 サントスで順調に成長し、90年にはブラジルで最も名誉のある賞とされる『ボーラ・ジ・オーロ』(ゴールデン・ボール)を受賞した。『ボーラ・ジ・オーロ』は、サッカー雑誌『プラカール』が主宰する、ブラジル全国選手権で活躍した選手に与えられる賞である。

 91年に同じサンパウロ州のSEパルメイラスに移籍、93年、94年と2年連続でサンパウロ州選手権とブラジル全国選手権の両方を制した。
 この時期のパルメイラスは黄金時代だった。
 監督は、後のブラジル代表監督のバンデルレイ・ルシェンブルゴ、選手にジーニョ、エバイール(以上元横浜フリューゲルス)、エジウソン(元柏)、ロベルト・カルロス(現アンジ)、エジムンド、アントニオ・カルロス(元柏)がいた。

 ぼくはサンパウロで、この時期のパルメイラスの試合を見たことがある。
 先制されたものの、後は終始試合を支配し、5点を取って試合をひっくり返した。ブラジル人が持っている技術を基礎に、組織プレーを徹底させた攻撃的サッカーで、見ていて面白かった。

 95年、サンパイオは、ジーニョ、エバイールと共に横浜フリューゲルスに移籍し、98年までプレーした。
 ブラジル代表には93年に初選出され、98年のW杯フランス大会に出場している。
 この大会、前回大会のチャンピオンとして臨んだブラジルは、開幕戦でスコットランドと対戦した。サンパイオは開始4分に、大会第1号のゴールをあげている。
 決勝のフランス戦では、0対3で敗れたものの、ドゥンガ(元磐田)と共に中盤の底からゲームを組み立てる能力は大会でもずば抜けていた。ブラジルでは、90年代最高のボランチの一人と讃えられている。

 横浜フリューゲルスが消滅した後、パルメイラス(ブラジル)、デポルティボ・ラコルーニャ(スペイン)、コリンチャンス(ブラジル)を経て、02年から再び日本に戻ることになった。柏レイソルとサンフレッチェ広島でプレーし、04年、サンパウロFCで選手としてのキャリアを終えた。

 先日、サンパイオは古巣のパルメイラスのディレクターに就任したと発表された。
 ぼくが彼を訪ねた10年3月時点では、サンパウロ州1部リーグのヒオ・クラーロというチームのディレクターを務めていた。
 ヒオ・クラーロは、サンパウロ州の内陸部、サンパウロから約160キロの場所にある、人口約18万人の小さな街である。
 かつてサンパウロ州には、サンパウロを始点とて四方へ鉄道が敷設されていた。100年以上前にブラジルに移民してきた日本人は鉄道に乗って、サンパウロ州の農場に散らばっていた。ヒオ・クラーロにも鉄道の駅があり、日系人が多数移民している。

 ヒオ・クラーロのスタジアムは古く、チームカラーの白と青で塗り分けられていた。中に入ると、煉瓦色の廊下の真ん中で犬が昼寝をしていた。南半球のブラジルでは、3月はまだ夏である。日中の最高気温は30度近くまで昇る。ひんやりした廊下のタイルは、犬にとって快適な昼寝場所のようだった。
 サンパイオは、スタジアムの中にある会長室で待っていた。扉を開けると、横に潰れたように拡がった鼻が印象的な彼が、愛嬌のある笑顔で立っていた。

「コンニチワ、ゲンキデスカ」
 日本語だった。
 引退後のサンパイオの活動については、ブラジルの新聞で時折目にしていた。
 サッカー選手は引退すると、監督、コーチなど指導者の道を歩くことが多い。だがサンパイオは、少々違ったセカンドキャリアを模索していた。
(写真:ヒオ・クラーロのスタジアムは、ブラジルによくある古い、コンクリート造りだった。)

「引退したのは36歳の時だった。サンフレッチェとの契約が終わり、それで引退したつもりだった。ブラジルに戻って半年ほどしてから、サンパウロFCから誘われて復帰することになった。そこで、サンパウロFCが最後のクラブになったんだ」
 コリンチャンス、パルメイラス、サンパウロFC、サントスというサンパウロ州の4大クラブ全てでプレーしたことになる。

「現役時代の98年から、スポーツクラブの経営に関わるようになった。最初は、リバウドと一緒に立ち上げたCSRフットボール・マーケティングという会社だった」
 リバウドとはもちろん、ブラジル代表時代、サンパイオの同僚だった左利きの選手である。
 CSRとサンパイオは、グアラチンゲタで、本格的にクラブ経営に乗り出した。
 サンパウロ州西部にあるグアラチンゲタを拠点としたグアラチンゲタ・エスポルチ・クルービは98年10月に設立された。翌99年11月から、CSRが経営に関与している。グアラチンゲタは、サンパウロ州のB2――すなわち5部リーグからスタートすることになった。

 サンパイオは選手時代から、理想のクラブ経営を思い描いていた。経営陣、選手にとって満足いくクラブにしたい――ところが、しばらくしてから、彼は自分の甘さを痛感することになった。
(写真:スタジアムの中で昼寝する犬。選手やスタッフは、犬をよけて歩いていた。)

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に勤務。2000年より退社して、文筆業に入る。『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)など著書多数。最新刊は、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社 2011年12月2日発売)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
◎バックナンバーはこちらから