身長184センチ、体重97キロという恵まれた体格の持ち主。左打席に入り、スッとバットを構えた瞬間、独特のオーラが醸し出される。真っ直ぐにピッチャーを見つめるその目は鋭く、威圧感さえ覚える。その姿、雰囲気たるや、今やMLBで活躍する松井秀喜を思い出さずにはいられない。澤良木喬之、23歳。“伊予のゴジラ”の異名をとり、高校時代からプロのスカウトに注目されている左の大砲だ。
 澤良木は中学時代までは全くの無名だった。そんな彼が名将として知られる済美高校の上甲正典監督の目に留まったのは、中学3年、最後の夏の大会だった。その試合、チームは負けたが、澤良木自身は3安打と絶好調だった。それを見た上甲監督は、彼の素質に目をつけたのだろう。後日、澤良木の下に済美から誘いの話が来た。しかし、当時の済美は前年度に女子高から共学にかわったばかり。野球部も創部2年目と若く、その年の夏の県予選は初戦で0−10と大差をつけられて敗退していた。それでも厳しさで有名な上甲監督の下、整った環境で野球ができる済美からの誘いは、無名だった澤良木にとってはありがたい話であり、特に迷うことはなかった。澤良木は済美への進学を決めた。

 ところが、予想だにしていなかったことが起きた。その年の秋、新チームとなった済美は秋の県大会で初優勝すると、四国大会でも決勝で徳島の強豪・鳴門工を10−0で完封勝ちし、創部2年目にして初の甲子園の切符を手にしたのだ。そして翌春、出場した選抜高校野球大会では、1、2回戦を完封勝ちすると、準々決勝では4点差を最終回に一挙5点を奪って逆転勝ち。さらに準決勝で甲子園常連校の明徳義塾を1点差で破ると、決勝も愛工大名電に1点差で逃げ切り、初出場初優勝を達成したのだ。これには、澤良木も驚きを隠せなかった。

「実は、先輩たちが甲子園から帰ってきたら、すぐに僕たち新入生が練習に加わることになっていたんです。だから正直、早く帰ってきてほしいなと思っていました(笑)。ところが、決勝まで進んでしまった。まさか、と思いましたよ。学校も僕たちの入学式どころではありませんでした」
 紫紺の大優勝旗を持ち帰ってきた先輩たちは、自信と誇りに満ち溢れていた。“甲子園優勝”というオーラを目の当たりにし、澤良木は「自分はエラいところに入ってしまった……」と不安な気持ちに駆られていた。だが、それは杞憂に終わった。澤良木は1年夏から早くもレギュラー組の一人として活躍し始めた。

 練習は予想以上に厳しいものだった。今でも特に覚えているのは、夏場に行なわれるトレーニングだ。その名も“済美スーパーサーキット”。
「24種目のトレーニングメニューが用意されていて、それを1種目1分間で30秒の休憩を挟みながら、順々に回って行くんです。例えば、ホームから一塁ベースまでの距離を続けて2、3往復、トラックのタイヤを手で押したり、タイヤに負荷がかけられていて、重くなっている自転車を漕いだり、綱上りしたり……。しかも、夏場での試合へのスタミナづくりということで、アップの時から猛暑の中を冬のグラウンドコートを着てやるんです。そのままノックも受けなければなりません。もう汗だくで、暑いし、重いし……。これが済美の名物トレーニングなんです」
 そんな厳しい練習を経て、澤良木は1年夏から「3番・ファースト」で試合にも出場するようになっていった。

 先輩・鵜久森からの教え

 1年時の澤良木が最も尊敬していたのは、2学年上の鵜久森淳志(北海道日本ハム)だった。お互いに自宅から通っていたため、澤良木は練習後、いつも鵜久森の後を追いかけ、常に一緒に帰るようにしていた。鵜久森から何かを得たいという思いが、そうさせていたのだ。
「鵜久森さんは本当に優しい人で、帰り道にいろいろと話をしてくれました。毎日、練習は21時過ぎまで行なわれて、そこからいったんバスで30分かけて学校に戻るんです。それから帰るので、家に着くのはいつも23時頃。それでも鵜久森さんは、毎日素振りを欠かさないと言うんです。それを聞いて、自分もやるようになりました。鵜久森さんはよく『バットを振った分だけ、強くなれるんだぞ』と言っていました。鵜久森さんの活躍を見ていると、本当にその通りだなと思いました」

 陰の努力は着実に澤良木の力となっていった。夏の県大会予選前の練習試合では、鵜久森の不動の座だった4番に就いたこともあった。
「実はその試合でうまくいけば、夏の大会でも4番を打たせてもらえるんじゃないかって思っていたんです。でも、鵜久森さんのすごさを改めて知ることになりました……」
 この試合、澤良木は2安打とまずまずの活躍を見せた。ところが鵜久森は2本塁打と、その上をいってみせたのだ。澤良木は自分が4番に座るには、まだまだ努力しなければいけないことを痛感した。

 夏の県大会、澤良木は「3番ファースト」あるいは代打で出場し、1年生ながらチームを優勝へと導く活躍を見せた。なかでも準決勝の宇和島東戦は、澤良木にとって今でも忘れられない試合となった。7−0と済美リードで迎えた6回裏、1死満塁の場面で代打に起用された澤良木は、豪快なスイングで三塁打を放った。走者が一掃し、これで10−0とコールドゲームが成立。澤良木の三塁打はサヨナラタイムリーとなった。この1年生の活躍に、めったに褒めることのない指揮官からも「夏の予選は長い。だから、少しでもピッチャーを楽にさせられてよかった」という褒め言葉が出た。澤良木は嬉しさと同時に、自分への大きな自信を得ていた。

 決勝戦では新田に逆転勝ちを収めた済美は、春に続いて甲子園の切符を手にした。初出場で春夏連覇となれば、高校野球史上初の快挙となる。それだけに、世間からも大きく注目を浴びた。しかし、選手たちに気負いはなかったようだ。初めて甲子園の土を踏んだ澤良木も、緊張感よりも、ここで野球をやれる喜びを感じていたという。県大会以上に伸び伸びとした野球で、済美は順当に勝ち進んでいった。

 初めての甲子園で、澤良木が特に印象に残っている試合は、準決勝の千葉経大付戦だ。その試合で、またも鵜久森の力を目の当たりにしたのだ。2点ビハインドで迎えた6回表、打席に立った鵜久森は1ボールからの2球目、内角への直球を鋭く振り抜いた。打球はレフトのポール際へ。飛距離は十分だったが、わずかに切れ、ファウルとなった。こういう場合、バッターは「次こそは」と気負いが生じるのだろう。空振り三振やボテボテの内野ゴロということも少なくない。だが、鵜久森は次の甘く入った直球を再び振り抜き、今度は見事にレフトスタンドへと運んだのだ。

「あの“打ち直しホームラン”は、さすがだなぁと思いました。もう、“これだったら、文句ないだろう”っていう感じだったんです。まだリードされていた場面だったんですけど、球場全体が“鵜久森劇場”みたいな空気になっていました。鵜久森さんが毎日、努力しているのを知っていたので、やっぱり努力って実るんだなと改めて教えてもらったような気持ちでした」

 しかし、済美の快進撃もこの試合でストップした。翌日に行なわれた駒大苫小牧との決勝戦は、1、2回で計5点を奪い、試合の主導権を握ったかに思われたが、準決勝まで一人で投げ続けてきた2年生エース福井優也の疲労は限界まできていたのだろう。中盤以降は激しい打撃戦となり、結局、10−13で打ち負けるかたちとなった。
 結局、澤良木自身は、一度も先発出場することはなかった。バッティングは十分に通用する力はあったが、守備にやや不安が残っていたからだ。3回戦の岩国戦で、代打出場するものの、相手ピッチャーのフォークボールに空振り三振。それ以来、一度も打席に立つことはなかった。

 実は決勝戦、澤良木に最後のチャンスが訪れようとしていた。3点ビハインドで迎えた最終回、2死一、三塁の場面で打席には鵜久森。もし、鵜久森が出れば、次は代打で澤良木が出ることになっていた。だが、鵜久森の打球は平凡なフライに。遊撃手のグラブに打球が収まった瞬間、澤良木の出番も、そして済美の優勝への道も閉ざされた。
「もちろん、出たい気持ちはありましたけど、僕もみんなも鵜久森さんが打てないんだったら、仕方ないと思っていました。負けた悔しさはありましたけど、最後が鵜久森さんだっただけに、納得の気持ちでした」
 高校野球生活にピリオドが打たれ、一様に涙を見せる3年生の姿を、澤良木は目に焼き付けた。そして「よし、今度は自分の力で絶対にここに戻ってこよう」と誓った。尊敬する鵜久森からは試合用の木製バットとバットリングを譲り受けた。鵜久森の汗がしみついたバットは、実際の重さ以上に、澤良木にはズシリと重く感じられた――。

 決勝戦から3日後、2日間の休日を経て、済美高校野球部は県外へと遠征に出かけた。それが新チームのスタートだった。センバツ出場をかけた“秋の陣”が、もうすぐそこまでやってきていたため、甲子園の余韻に浸る余裕はなかった。そして澤良木には鵜久森が抜けた穴を埋めるべく、4番としての期待が寄せられていた。“伊予のゴジラ”が本領を発揮し始めるのは、それから間もなくのことだった。

(第2回につづく)

澤良木喬之(さわらぎ・たかゆき)プロフィール>
1988年7月23日、愛媛県生まれ。小学4年から地元のソフトボールチームに入り、高学年時には「エースで4番」として活躍。中学時代は軟式野球部に所属した。済美高校では1年夏からベンチ入りし、甲子園に出場。チームは準優勝を果たす。同年秋からは4番に抜擢され、“伊予のゴジラ”として注目された2年夏の甲子園は2回戦敗退。3年時には「エースで4番」としてチームを牽引した。高校通算本塁打数は51本。日本文理大学では1年時から4番に座り、2年、3年時にはチームを全日本大学選手権出場に導いた。2011年4月、セガサミーに入社。184センチ、97キロ。左投左打。






(斎藤寿子)
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