ポルトガルのスポルティング・ブラガ、フランスのモンペリエHSC――両クラブでは出場機会が得られず、不完全燃焼だった。日本への帰国は、広山にとっては本意でなかったかもしれないが、2004年シーズン終了後、広山は東京ヴェルディへと移籍。05年シーズンはセレッソ大阪にレンタル移籍した。
(写真:02年、ドイツで行われたジョルジーニョ(現鹿島監督)主催の慈善試合。広山は世界選抜の一員として招待された)
 しかし、広山がパラグアイに行った時と日本の状況は変わっていた。1998年以来、日本代表がW杯に連続出場したことで、日本のサッカーは世界に認知されるようになり、海外移籍は特別なものではなくなっていた。
 加えて2シーズン、出場機会が恵まれなかったことで広山自身、試合勘を失っていた。それでも、調子を取り戻せば、また海外でプレーする機会も来るだろうと広山は思っていた。

 ところが――。
 レンタル先のセレッソからヴェルディに戻った06年、母親が癌であることが分かった。
 広山は中学生の時に父親を亡くし、母親の手で育てられた。母親は息子の試合を見るのが大好きで、頻繁にスタジアムへ足を運んでいた。ジェフ市原(現千葉)時代、熱心なサポーターはみな彼女と顔見知りだった。

 選手としていい状態のうちに、もう一度海外で挑戦してみたいという思いが頭をよぎったこともある。それでも、彼は母親のそばにいることを選んだ。
 広山は試合や練習以外の時間は母親の病室で過ごすようになった。
 08年1月に結婚式を挙げたのは、これまで苦労して自分を育ててくれた母親を安心させたいという気持ちからのものでもあった。その結婚式の一週間前、母親が倒れた。生死に関わる危険な状態だった。広山は式自体を取りやめようかとも思った。しかし、フランスからも友人が駆けつけることになっていたため、式は予定通り行うことにした。

 式の2日前のことだ。母親から電話があった。
 式には必ず行く、という。その言葉通り、当日母親は病院からタクシーに乗り、車椅子に乗って式に参列した。
 広山の友人たちは、「久し振りです」と母親の周りを取り囲んだ。顔色も良く、誰も深刻な病状だとは思わなかった。

 しかし、病は確実に進んでいた。
 その年の11月2日、広山は西が丘での天皇杯・ヴェルディ対サンフレッチェ広島の試合を終えて、病室に向かった。
 翌朝未明、母親は息を引き取った。最期を看取れたことが、最後の親孝行になったかなと思った。このシーズン終了後、ヴェルディとの契約が終了し、広山はザスパ草津に移籍した。

――来季の契約は結ばない。
 ザスパ草津の事務所に呼ばれた広山が、そう告げられたのは、10年11月18日のことだった。
 そのシーズンは、2年契約の2年目にあたり、背番号10をつけて38試合中30試合に出場していた。
「試合に出ているとか、出ていないとかあんまり関係ないんじゃないですか? チームに何らかの刺激を与えるために、こうした通告はあるかもしれないと覚悟はしていました」
 そう言いながらも、彼はまだサッカーを辞める気はなかった。

 ――どこでサッカーを続けようか。
 頭に浮かんだのは、アメリカだった。広山はすでに南米と欧州のサッカーを経験していた。こうした国々には日本にはないサッカー文化が存在していた。アメリカはW杯に5回連続出場し、急速に力をつけてきている。アメリカにも独特のサッカー文化が育っているのだろうと、気になっていたのだ。
(写真:ドイツでの慈善試合の移動中。広山の後ろに座っていたのは、元ブラジル代表のタファレルだった)

 Jリーグ選手会が主催する、12月14日のトライアウトにはMLS(メジャー・リーグ・サッカー)のスカウトが来ることを、「LeadOff Sports Marketing」GMの中村武彦から聞いていた。
 MLSでは、木村光祐という日本人選手が成功していた。彼は、07年のMLSサプリメンタルドラフトで、『コロラド・ラピッズ』から指名を受けてプロ契約を結んだ。10年シーズン、コロラドは木村の活躍もあり、MLSカップを獲得している。

 木村は、川崎フロンターレのユースには所属していたが、日本でのプロ経験がなかった。それでもMLSで活躍する木村のような才能が日本には埋もれていると思われていた。
 広山は人を通じて、中村に連絡をとった。彼は、かつてMLSの国際部に籍を置いており、その後もアメリカへの窓口として、数多くの日本人選手が彼を頼っていることを耳にしていたのだ。トライアウトにMLSのスカウトを連れてきたのも中村だった。

 広山は自分のプレー映像の入ったDVDを編集し、履歴書を作り、中村に託した。
 しかし、思っていたような返事は返ってこなかった。
――日本人選手を獲るのならば、将来性のある若い選手を考えている。

 広山は33才になっていた。否応なしに、サッカー選手として自分が終わりに差し掛かっている現実を突きつけられた。
 日本国内のクラブからも、色よい返事はなかった。 
 移籍先として、インドネシア、タイも候補に挙がった。しかし、心が引かれていたのは、やはりアメリカだった。

 MLSでなくてもアメリカには独立リーグがある。多くの日本人選手がトライアウトを受け、プレーしていた。1か月ほど滞在して、3、4のクラブのトライアウトを受ける選手もいた。だが、広山は闇雲にテストを受けるのではなく、環境が良さそうなクラブに絞ることにした。そこで浮上したのが、リッチモンド・キッカーズというUSL(ユナイテッド・サッカーリーグ)のクラブだった。

 USLは1986年にインドアサッカーのリーグとして始まり、90年ごろからサッカーリーグとしての形を整えるようになった。2011年シーズンからは、アメリカンとナショナルの2つのディビジョンから成る、USLプロというリーグへの再編が発表されていた。MLSへの選手移籍も盛んで、下部組織的な役割も果たしているという。

 中村を通じてリッチモンドに連絡を取ってもらうと、2月23日から行われるテストに招待された。
 リッチモンドでは、環境の良さに圧倒された。試合を行うスタジアムの他、芝生の練習グラウンドが4面、さらに人工芝のグラウンドが2面あった。テストは、十数人の招待選手と現存チームの選手を混ぜた紅白戦形式だった。

 3日間のテストが終わった後、広山一人だけが呼ばれ、合格を告げられた。「細かな契約を詰めたい」――チームの人間から言われた。しかし、テスト翌日の飛行機をすでに押さえてあった。チケットは変更不可だった。
「日本に帰国してから、メールでやりとりしましょう」
 ところが――契約を後回しにしたことを、広山は後悔することになる。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に勤務。2000年より退社して、文筆業に入る。『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)など著書多数。最新刊は、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社 2011年12月2日発売)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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