小さい頃は五輪に出るのが夢だった。10歳の時にテレビで見た2000年のシドニー五輪。女子マラソンで金メダルを獲った高橋尚子に憧れた。
「五輪に出る」
 小学校時代につくったタイムカプセルには大きな夢を詰め込んだ。
 山中が最初に取り組んだスポーツは水泳だった。幼稚園から地元のクラブに通って泳いだ。中学校でも水泳部に所属した。転機はそこで訪れる。当時の陸上部の監督に誘われ、駅伝大会に出場することになったのだ。水の中で培われた持久力がいき、陸の上でも実力を発揮。3年時には県の中学駅伝優勝に貢献した。

「細くて小さい子だなというのが第一印象でした。でも走らすと体にキレを感じましたね」
 そう当時を振り返るのは高知・山田高陸上部の永田克久監督だ。同校は昨年まで22年連続で全国高校女子駅伝に出場を果たしている強豪である。進学した山中は寮生活を送りながら、朝から晩まで練習に励んだ。
「寮は3人部屋だったので大変でした。ツラくて泣いたこともあります。でも練習は自分が強くなるためのもの。厳しくても耐えられました」

“持っちゅう子”

 1年生から頭角を現したが、成長期の体が悲鳴をあげたのかケガや病気に悩まされた。1年の全国高校駅伝では足の甲を疲労骨折。メンバーに入れなかった。2年時にはウイルス感染で熱を出し、1カ月ほど練習ができなかった。
「先生、ちょっといいですか」
 山中が永田に1対1で面談の機会を求めたのは、その頃だった。
「状況から考えて、“私はもうムリです。辞めます”と言ってくると思いました。何と言って励まそうかと……」
 しかし、永田が覚悟を固めて向き合った少女が発した言葉は違った。
「先生、私は絶対辞めません。頑張りますから。だから、これからもよろしくお願いします」
 涙ながらの訴えだった。

 その強い思いが実り、故障は癒え、体も成長して山中は中心ランナーに成長する。2年冬の全国高校駅伝では4区で区間5位の走りをみせ、チームの8位入賞を呼び込んだ。3年の国体では出場選手の故障により、急遽メンバーに選ばれながら、少年女子A5000メートルで2位に入った。
「駅伝に向けて走りこんでいる時期だったので、正直、疲労もたまって調子はボロボロやったんです。でも、思った以上の走りをしてくれた。野球で斎藤佑樹君が“持ってる”と言われていましたが、山中にも“持っちゅう子やなぁ”と感じましたよ」

 だが、土佐弁でいう“持っちゅう子”は、その時には高校限りで陸上を辞める決意をしていた。大学、実業団からの誘いは全て断った。資格を取って看護師になる。それが山中の将来設計だった。そして働きながら資格取得ができる環境として自衛隊入隊を選択する。
「五輪に出る」
 タイムカプセルに詰めた夢のことを本人もすっかり忘れていた。それはもう地中に埋まったままになるはずだった。

(第3回へつづく)
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山中詩乃(やまなか・しの)プロフィール>
1990年8月3日、高知県生まれ。幼稚園から水泳をはじめ、城北中では駅伝メンバーに選ばれて県大会優勝。中3から4年連続で都道府県対抗駅伝の県代表に選ばれる。山田高では2年時に全国高校女子駅伝で県勢初の8位入賞に貢献。3年時は大分国体少年女子A5000メートルで2位に入る。09年に自衛隊入隊。近代五種を始める。転向後1年半で迎えた11年5月のアジア・オセアニア選手権(中国・成都)で5位に入り、黒須成美とともに日本女子初のロンドン五輪出場権を獲得した。身長158センチ、体重40キロ。




(石田洋之) 
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