特に関心もないのに、安易に「仕事だから」と引き受けた取材は、取材される側にとっても幸せな結果にはならない、とぼくは思っている。だから、ある時期から自分が前向きな興味を持てる人間しか取材しないようにしている。ぼくの指向は、賢明な編集担当者には分かっているのだろう。これまで“無理に”という類の依頼はなかった。とはいえ、ぼくのようなそれほど売れていないノンフィクション作家に、「好きなように書いて下さい」という優しい誘いなどない。描きたいと思う人物を取材するには、取材費等を捻出することを考えなければならなかった。
「リッチモンドに渡った広山望に会いに行くためにはどうすればいいか……」
(写真:観客席は子どもが多い。そしてみんな元気である)
 昨年5月、ちょうど以前から話を聞きたいと交渉していたロサンゼルス在住(当時)の元メジャーリーガー、伊良部秀輝(故人)の取材が決まった。そこで、この取材旅行にリッチモンド行きを組み入れることにした。
 5月のロサンゼルスは乾いた空気が流れており、気持ちのいい気候だった。到着したその日にロサンゼルス南部のトーランスにある蕎麦屋で伊良部に話を聞き、翌日はカリフォルニアらしい風景――ローラースケートを履いた人々が行き交うベニスビーチで撮影をした。雲一つなく、真っ青な空だった。その太陽の光を避けるかのように、大きな身体を縮めて歩く彼の姿が、その後もぼくの頭からずっと消えなかった。それからしばらくして自ら命を絶ち、ぼくは生前最後のインタビュアーとなった。

 話を戻そう。
 伊良部の取材の後、ロサンゼルスからシカゴに飛び、『アメリカン・イーグル航空』の小型ジェット機に乗り換えて、リッチモンドに到着した。リッチモンドの空港はこぢんまりとして真新しかった。小雨が降っており、肌寒い。乾いた空気のロサンゼルスとは全く違っていた。ロスとの時差は3時間。アメリカの広大さを思い知った。

 空港を出ると、雨に濡れた青々とした木々が左右に広がっていた。空港そばのホテルに荷物を置いて、スタジアムに向かった。夜7時からリッチモンド・キッカーズ対FCニューヨークの試合が行われることになっていたのだ。ハイウェイを車で走っていると、高層ビルが建ち並んでいた。
 リッチモンドは、人口約20万人のバージニア州の州都である。フィリップモリスが本社を置いており、化学、薬品産業が盛んだ。街の中心地は、新しい建物が多く、清潔な印象がした。通りは土曜日のせいか人の姿はなかった。
 幸い雨は止み、雲の切れ間に青空が覗いていた。ハイウェイを降りると、街の様子が一変した。簡素で小さな家が密集しており、黒人が庭先でぼんやりと佇んでいた。今は亡きブルース・シンガー、ジョン・リー・フッカーがギターを抱えて現れそうだった。
 やがて、道路の左右の鬱蒼とした緑が切れると、車が沢山止まっているのが見えた。その向こうに、観客席とポールに掲げられたアメリカ国旗が見えた。リッチモンドのスタジアムだった。

 フェンスの前には、長テーブルが置かれており、赤色のTシャツを着た若い男性が座っていた。そこがチケット売り場のようだった。入場口近くには、リッチモンドのチームカラーである赤色のシャツやビブスをつけた人々が立っていた。欧州や南米のサッカースタジアムにいるような物々しい警備員ではなく、明らかにボランティアの白髪の老人だった。入口では、やはり赤いリッチモンドのTシャツを着た子どもたちが赤い紙を配っていた。中を開くと、リッチモンドのクラブ案内と年間チケットの誘いだった。

 リッチモンドは、広山のいる<プロ>を頂点に、幾つものカテゴリーがある。年齢と技術レベルに加え、娯楽としてのクラスと、競技クラスとに分けていた。男子だけではなく、練習風景の写真には若い女子選手も写っていた。
 試合チケット代は大人12ドル、子ども7ドルと安い。チケット収入よりも、育成と普及などのスクール経営による収入に力を入れているのだ。

 プレス向けに配られた選手リストには、身長、体重、ポジションの他、大学の欄があった。ここが空欄になっているのは、リッチモンドの中では、広山とリーズユナイテッド(イングランド)でプレーしていた英国人ゴールキーパーの2人だけだ。ブラジル、ドイツ、ウガンダ、ジンバブエ出身の選手がいるが、彼らは皆、アメリカの大学のサッカー部を経由して、このクラブに入っていた。アマチュア時代の日本リーグのように、多くの選手が当たり前のように大学サッカー部という経歴を持っていた。これは日本など他のプロリーグのある国と異なっているようだった。

 スタジアムの中に入ると、練習着姿の広山をすぐに見つけることが出来た。ピッチに降りて、選手のロッカールームを案内してもらった。背番号順にロッカーが並んでいた。音楽がかけられ、くつろいだ雰囲気だった。
 外に出ると、スタジアムの周りでは人々がバーベキューをしたり、芝の上を女の子がボールを蹴ったりしていた。ここではサッカーが休日の一つの楽しみに組み込まれているようだった。
「あまり客は入らないと思いますよ」と広山は言っていたが、試合時間が近づくと、メインスタンドは埋まっていった。
 赤いユニフォームを着てカウベルを叩く初老の男性、拡声器で声を出しながら、応援旗を振り回す子どもたち――。自分たちの街のクラブに勝って欲しいという気持ちが伝わってきた。

 リッチモンドは、7番をつけたデリカットという選手をワントップに置き、左右に開いた両サイドの選手がクロスを上げるという戦術だった。サイドの27番のヌヤザンバという黒人選手はドレッドヘアーで長い足をしていた。サイドを小気味よく駆け上がると、正確なクロスボールを上げた。身体的能力は非常に高かった。
 その中で広山は守備的ミッドフィールダーとしてボールを左右に捌いていた。監督から「好きなように動いてもいい」と指示を受けている理由が分かった。プレーに緩急をつけることのできるのは広山だけだったのだ。コーナーキックも彼に任されていた。しかし――。チームは機能しているとは言えなかった。
(写真:コーナーキック等、広山の正確なキックはチームの一つの武器である)

 地力に勝るリッチモンドは優勢に試合を進めた。両サイドからチャンスは作ったが、最後のシュートが雑で強引だった。全体的に大味な試合で、個々の選手の能力は光るものがあるにしても、チームとしてのレベルは日本のJ2にも及ばないという感じだった。
 後半途中で広山は交代し、試合は2対2の引き分けで終わった。
「勝てる試合でした」
 広山は試合後、悔しそうな顔をした。それでもザスパ草津でプレーしている時よりも、楽しそうだった。
 翌日、ぼくは広山の自宅を訪れた。そこで見たアメリカの環境は、ぼくが想像していたものとはかなり違っていた。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に勤務。2000年より退社して、文筆業に入る。『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)など著書多数。最新刊は、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社 2011年12月2日発売)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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