ちょっと前、沈没しかけた豪華客船から我先にと逃げ出してしまったイタリア人船長に国際的な批判が集まった事件があった。本人は弁明に努めることしきりだったが、見捨てられた形になった乗客やスタッフの怒りが収まるはずもない。いずれは法廷での裁きを受けることになろう。
 ただ、幸いなことに、最高責任者たる船長が姿を消してしまったにもかかわらず、無事に脱出することができた乗客がいたのは、船の構造を熟知する残ったスタッフが見事に船長の穴を埋めたからでもある。
 絶不調に陥ってしまったチームは、いわば沈みかけた船である。立て直すのは簡単なことではない。それだけに、後任者探しにはフロントも知恵を絞るが、大まかにいって、そのパターンはほぼ2つ、である。たまたまフリーでいた経験豊富にして実績のある人間を外部から招聘するか、チームの内情、実情をよく知るコーチを監督に昇格させるか、である。ブンデスリーガの古豪ボルシアMGを劇的に復活させたファブレ監督は前者、期待に応えられなかったビラス・ボアスに代わって監督に昇格したディマッテオは後者のパターンと言える。“銀河系軍団”をつくったレアル・マドリードのデルボスケも、シーズン途中の監督昇格だった。

 もちろん、チームの内部にいたわけではなく、かつ経験もさほどではない人物が後釜に据えられる例もないわけではない。ただ、その人物がかつてチームのスターだったとなると、これはそうそうあることではない。救うことに失敗すれば、チームは、将来のスター監督候補にドロを塗ってしまうことになるからである。

 ガンバの松波監督は、現役時代、“ミスター・ガンバ”としてファンから愛された存在だった。横浜FCの山口監督は、フリューゲルス時代から三ツ沢をこよなく愛した男だった。どちらも、チームにとっては取り換えの利かない人材、いわば切り札であるとわたしは思う。

 自分の愛したチームが危機的状況だということになれば、なんとしても力を貸したいという気持ちはわかる。そもそも、監督という職業は、望んだからといってなれる類の仕事ではない。彼らがあえて火中の栗に手を伸ばした気持ちは痛いほどにわかる。

 わたしがフロントの人間であれば、こんな状況で切り札を切ったりはしない。だが、切ってしまった以上、問われるのは結果がでなかった際のフロントの対応である。信念があっての抜擢だったのか、切り札をいたずらに浪費しただけだったのか――。その答えは、いずれ浮かび上がってくるだろう。

<この原稿は12年4月19日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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