「史上最弱」――鳴門工業高校時代、田中勇次らの代が言われ続けてきた言葉だ。実際に新チーム発足後、勝つことの少なかった田中たちは、この言葉を素直に受け止めるしかなかった。しかし、決して腐ることはなかった。それどころか、彼らはより一層、練習に取り組んだ。そして、その努力が「史上最強」と謳われた先輩たちにも成し得なかった“奇跡”を起こしたのである。
「1年生の頃の田中は目立たない存在でした。正直、彼のポジションさえも把握していなかったくらいで、第一印象は覚えていないんです」
 そう語るのは2009年4月より高岡第一高校(富山)の野球部監督を務める山口博史だ。当時、鳴門工のコーチだった山口には、1年夏までの田中についてはほとんど記憶にない。だが、秋季大会が終わり、最も過酷な冬のトレーニングが始まると、田中の姿が目に付くようになったという。
「田中たちの一つ上の学年はメンバーが揃っていて、体も大きい選手が多かったんです。素質的には非常に高いものをもっていて、期待も大きかった。でも、練習はするけれど、あともう一歩、追い込みが足りなかった。そんな中、小さな体で一生懸命食らいついていたのが、田中でした。その頃から根性がありましたね」

 田中は最終学年となり、自らがキャプテンとしてチームを牽引する立場になると、さらに根性を見せた。田中たちの代は10人と少なく、レギュラーの半数が一つ下の学年で締められていた。さらに秋の大会は初戦敗退。その後の練習試合ではスタメン全員が下の学年ということもあったという。後輩たちが調子に乗っても仕方のないことだった。だが、冬のトレーニングが始まると、部の雰囲気はガラリと変わった。当時の様子を山口はこう語っている。

「それまでの先輩たちと比べても、一本一本に対する姿勢が違いましたね。特にキャプテンの田中と、実祐輔、佐藤和成のバッテリーは、彼らの代では数少ないレギュラーということもあって、率先して取り組んでいました。“タイム切り”と言って、決められた時間内にやらなければいけないメニューがあるのですが、へばりそうになっている後輩をよそ目に、彼ら3人はそのタイムをどんどん切ってしまうんです。1本たりとも気を抜くことなく、ぎりぎりまで追いこむ彼らを見て、もう下の学年も黙ってついていくという感じになりましたね」

 こうして自らの背中でチームを鼓舞する田中だったが、実は体は万全ではなかった。秋の大会直後、練習時のノックでダイビングキャッチをし過ぎたのが原因で、腰をはく離骨折。1カ月後、ようやく完治したと思った矢先に、今度は右肩を亜脱臼し、冬の間、ボールを投げることができなかった。それでも決して練習の手を抜くことはなかった。
「こんなにきついのは、これが最後だ……」
 ラストチャンスにかける思いが、田中を鼓舞していた。

 春の大会にはなんとか間に合った田中の調子はそれほど悪くはなく、まずまずの成績を収めた。だが、田中は後輩の台頭を感じずにはいられなかった。そして夏の大会前、恒例の投票が行なわれた。鳴門工では夏の大会のメンバーを部員たちが投票で決めることになっていたのだ。そこで、田中はショートのポジションに自分の名ではなく、後輩の「安岡瑞葵」の名を記した。
「安岡は入学した時から期待されていたんです。でも、精神的に弱いところがあって、すぐに『ここが痛い』『あそこが痛い』と言うので、なかなか試合には出させてもらえていませんでした。ところが、自分たちの代になってからは試合に出るようになり、ホームランを量産していたんです。もう、自分とは長打力が明らかに違っていましたから、誰が見てもレギュラーは安岡でした」

 田中に渡された背番号は控えの「14」。新チームになってから、初めての2ケタの背番号だった。
「もちろん、悔しかったですよ。それに、キャプテンでしたから、正直2ケタの背番号を背負うのは恥ずかしかったです」
 それでも田中は、そんな気持ちを表に出すことは一切なかった。同級生で正捕手の佐藤は、当時の田中についてこう語っている。
「ケガをして、なかなか思うようにいかなかった時期もあったと思いますが、だからと言って、悩んで下を向いたり、愚痴を言う姿は一度も見たことがありませんでした。とにかく練習では先頭に立ってやっていましたし、最後までグラウンドに残っていたのも彼でした。レギュラーではなくなってからも、後輩に守備を教えたりしていましたし、キャプテンとしてチームを引っ張ってくれていました」
 そんな田中を、部員たちは信頼し切っていた。

 甲子園につながった3回戦での奇跡

 そして迎えた夏の県大会。初戦を15−0の5回コールドで圧勝した鳴門工は、3回戦に臨んだ。中盤まで試合の主導権を握ったのは鳴門工だった。初回に1点を先制すると、3回に1点、4回に2点と効率よく得点を重ね、4回表を終えたところで4−0となった。だが、相手の徳島北は春にはベスト4に進出しており、そう簡単に勝てる相手ではなかった。

 4回裏、徳島北の猛攻にあい、一挙4点を奪われて同点とされてしまった。そして同点のまま迎えた9回裏、四球とセーフティバントで無死一、二塁とされると、送りバントを決められ、1死二、三塁と一打サヨナラのピンチを迎えた。この時、鳴門工の誰もが1年前の夏を思い出していた。同じ3回戦での延長11回裏、先頭打者を四球で出し、ミスもあって送りバントを決められ、無死満塁となったところをタイムリーを打たれてサヨナラ負けを喫したのだ。

 鳴門工は勝負に出た。この試合、当たっている3番打者を敬遠して満塁とし、4番打者との勝負を挑んだのだ。4番打者の打球はセンターへ高々と上がっていった。打球の勢いは犠牲フライには十分の飛距離を予想させた。ところが突然、それまでなかった風が吹いた。ボールは押し戻されるように浅いフライとなって中堅手のグラブにおさった。そして、タッチアップでホームを狙った三塁ランナーをバックホームで刺し、無失点に封じたのだ。最大のピンチを凌いだ鳴門工は延長10回にこの試合、無安打だった松浦健がタイムリーを放ち、勝ち越した。ここにも鳴門工の“ツキ”が隠されていた。

 1死三塁の場面で打席に立った松浦はレフト前にヒットを放った。三塁ランナーが返り、ようやく鳴門工に勝ち越し点が入った。自らのバットで待望の追加点を挙げた松岡は、一塁ベース上でスタンドに向かってガッツポーズを繰り返した。だが、鳴門工のベンチはなぜか皆、青ざめた表情をしていた。実は松浦にはスクイズのサインが出ていたのだ。
 三塁コーチをしていた田中は、目の前の光景に唖然としていたという。
「スクイズのサインでしたので、三塁ランナーはピッチャーが投げた時点で、もう走り始めていたんです。ところが、松浦が思いっきりバットを振るものだから、驚きましたよ。ヒットになったからよかったですけど……」
 結局、ミスから生まれたタイムリーが決勝点となり、鳴門工は準々決勝へコマを進めた。前年、「史上最強」と言われた先輩たちが乗り越えられなかった3回戦の壁を乗り越えた田中たちには、大きな自信が芽生えていた。そして、準々決勝で富岡西を破ると、準決勝は鳴門第一、決勝では3連覇を狙っていた徳島商に勝ち、鳴門工は3年ぶりとなる甲子園出場を決めたのである。

「史上最弱」と言われた自分たちが全国への切符をつかむことができた理由を、田中は次のように考えている。
「3回戦の9回裏、1死満塁の場面で逆風が吹かなかったら、完全に犠牲フライとなって、サヨナラ負けをしていました。それが、あの時だけ風が吹いた。そして、松浦の本当だったらミスであったはずのヒットが決勝タイムリーとなった。この試合は本当にツキがありました。でも、それは単に運がよかったからというわけではなく、やはり厳しい冬のトレーニングでの追い込みが、あの試合での“ツキ”を呼んでくれたのだと思います。そして決勝ですが、相手の徳島商は疲れているように見えました。というのも、あの年の夏は雨が一度も振らず、日程がスムーズにいきました。とても暑かったですし、雨による休養がなかったことで、体力的には厳しかったと思います。実際、準決勝まで平均8得点と強打の徳島商打線も、決勝ではスイングに力強さがなく、4安打に終わった。僕たちには練習量ならどこにも負けないという自信がありました。3年間、積み上げてきた練習量が、最後の最後に体力の差として出たのかなと思います」
 勝つことを知らなかったチームが、努力で夢の舞台の切符をつかみとった。

(最終回につづく)

田中勇次(たなか・ゆうじ)
1991年1月11日、兵庫県出身。鳴門工業高3年夏、主将として甲子園に出場。明治大では2年秋に内野手から外野手に転向し、翌年の春季リーグでは開幕スタメン入りを果たした。主に守備固めとして、昨秋には明治神宮大会優勝に貢献した。今年は主将としてチームを牽引する。170センチ、70キロ。右投右打。






(斎藤寿子)
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