二宮: 塩見投手は生まれが大阪ですが、愛媛の帝京第五高に進学した理由は?
塩見: 兄が、そこの野球部に入っていたことが一番大きな理由です。知り合いの紹介もあり、僕も行こうと思いました。
 高校時代は3試合で4本塁打!

二宮: 大阪だと私立の強豪校もたくさんあります。そこで甲子園を目指そうという気持ちは?
塩見: 強い学校からは誘いがなかったんです。大阪に限らず、他の四国の高校からもありませんでした。当時は全然目立ったピッチャーではなかったんです。

二宮: 左投げは野球を始めた頃から?
塩見: はい。ずっと左です。ごはんを食べるのも、字を書くのも左。母親が厳しくて、右に直そうとしたみたいですけど、無理でした。

二宮: 野球を始めたきっかけは?
塩見: 父が大学までピッチャーをやっていたので、その影響です。兄もピッチャーをしていました。

二宮: 高校の時にプロから誘いはなかったんですか? 
塩見: スカウトは見に来ていたんですけど、それほどでもなかったと思います。球速は140キロも出ませんでしたし、三振が獲れていたとはいえ、相手も強くなかったので。

二宮: ピッチングだけでなくバッティングも目を見張るものがあったそうですね。3年の夏には3試合連続で計4本塁打を放っています。
塩見: その大会だけですね。もう今はバッティングは全く自信がありません。

二宮: 楽天には愛媛出身の岩村明憲選手(宇和島東高出身)もいます。その岩村選手でも、高校時代に3試合連続ホームランはありませんでした。
塩見: でも、その頃から、バッターでやっていくつもりは全くありませんでした。岩村さんには、本当によくしてもらっていて、ご飯に連れて行ってもらったり、野球教室に誘っていただいたりもしました。投げていても内野から声をかけていただけるので、とてもありがたいです。

 超えられなかった今治西の壁

二宮: 「プロに行きたい」という気持ちが芽生えたのは、いつから?
塩見: 高校3年の時には、漠然とプロという意識はありました。ただ、大学は出たいなと思っていたので、本格的にプロを目指したのは大学3年からです。

二宮: 高3の夏はベスト8。甲子園に出場した今治西に負けました。
塩見: 4番に宇高(幸治)がいて、エースは1つ下の熊代(聖人、現埼玉西武)でした。なかなか勝てなかったですね。

二宮: 大学は青森の八戸大に進みます。八戸大は同じ楽天の川島亮投手、青山浩二投手、同期の秋山翔吾選手など近年、プロ野球選手を多く輩出しています。進学のいきさつは?
塩見: いろいろと誘いがあったのですが、父と八戸大の藤木(豊)監督が知り合いだった縁で入ることになりました。

二宮: 愛媛から青森へ。最初は寒かったのでは?
塩見: 寒かったです。4年間いましたけど、あの寒さにはなれなかったですね(笑)。

二宮: でも大阪、愛媛、青森と各地に行くと、友達もたくさんできたのでは?
塩見: そうですね。特に大学時代の友達は僕のように全国各地から来ていたので、楽しかったです。パ・リーグは遠征であちこち回りますけど、行く先々で友達や知り合いに会えるのは良かったと思います。

二宮: ところが大学では1年の時に腰を痛めて投げられず、「野球をやめたい」とまで思ったそうですね。
塩見: 全然投げられなくて、野球がおもしろくなかったので、もうやめようと思いました。

二宮: 高校時代はバッティングも良かったわけですから、バッターに転向しようという考えは?
塩見: 少しありましたね。でも腰が悪いとバッティングもできない。どちらにしても野球ができなくなるから、やめたいという気持ちになったんです。

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(第3回へつづく)

塩見貴洋(しおみ・たかひろ)プロフィール>
1988年9月6日、大阪府生まれ。中学時代までは主に外野手だったが、兄を追って進学した帝京第五高で投手に。3年夏にはベスト8入り。八戸大に進学後はケガに悩まされたが、4年春には北東北大学リーグ新記録となる防御率0.00を記録。秋の明治神宮大会の代表決定戦では東北福祉大相手にノーヒットノーランを達成する。その年のドラフト会議で東北楽天と東京ヤクルトから1位指名を受け、抽選の結果、楽天が交渉権を得て入団。1年目の昨季は5月に初勝利をあげると、先発ローテーションに定着し、4度の完投を含む9勝(9敗)をあげた。新人王こそならなかったが、優秀新人賞を獲得。182センチ、77キロ。左投左打。背番号11。



(構成:石田洋之)
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