人はなかなか本音を話さないものだ。特に多くの人間から取材を受けてきた、“取材慣れ”した人間に話を聞く時は注意が必要である。過去にどこかで話した内容をただ繰り返すことも少なくないからだ。彼らには、きちんと向き合い、繰り返し会い、しつこく話を聞かなければならない。
(写真:9月11日、ジーコはW杯最終予選で日本代表と対戦する)
 ぼくが初めてジーコにきちんと話を聞いたのは、今から17年前の1995年1月。彼が母国ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに作ったサッカーセンター開幕式の数日前のことだった。またこの頃、ジーコに日本、サッカーについて語って貰うという連載を『週刊ポスト』という雑誌で始めることになっていた。毎週2ページ、全30回の連載は好評で、続篇も作ることになった。都合、ブラジルへは3度訪れ、その度に数日間集中して話を聞いた。

 その後、2002年に日本代表監督に就任してからは、月刊誌『プレジデント』で彼を追いかける連載を持った。ドイツワールドカップ前に会いに行くと「お前、もう聞くことはないだろ」と冗談まじりに言われたことがあった。
「代表監督の間は話せないこともあるだろう。辞めたらあなたのいるところ、世界中どこにでも行くから、また話を聞かせてくれ」
 とぼくは返した。

 約束通り、イスタンブール、モスクワで1度、そしてリオで2度、彼の節目ごとに話を聞いた。各方面に気を遣う必要があった代表監督時代とは会話の濃度が違った。ぼくがブラジルで生活した経験があり、ポルトガル語を理解できることも大きかったのだろう。時にはお酒を一緒に飲みながら、様々な話をしてくれた。その中には「06年W杯の日本代表には腐ったミカンがいた」と発言し、話題となった取材も含まれている。それらを踏まえて、ぼくは日本人ジャーナリストとして、最も彼の話を聞いてきたという自負がある。

 そんなぼくにとって昨年9月、ジーコがイラク代表監督に就任したという報道を目にした時は、悪い冗談にしか思えなかった。それでもジーコには定期的に話を聞く――それがぼくと彼との約束だった。だから、イラクに行くつもりだった。ぼくはこれまで50カ国を超える国を訪れたことがあるが、中東はない。イラクは未知の国で、楽しみでもあった。

 ところが、連絡を取ると「ブラジルに来てくれ」と言う。イラク代表はブラジルW杯アジア3次予選初戦のホームゲームで観客がピッチに降りたことで、国際サッカー連盟(FIFA)からイラク国内での試合を禁じられていたのだ。アウェーゲームはもちろん国外だが、ホームゲームも近隣のカタールで行っていた。そのため、ジーコは試合前になると、カタールへ行き、選手たちを集めて合宿、試合が終わるとブラジルに帰ってくるという生活だった。
 
 まずは年明けの今年1月にリオで話を聞く約束をした。ところが1月のスケジュールが大幅に変更になり、延期となった。さらに「3月3日の誕生日には必ずリオに帰る」というジーコの言葉を信じて、飛行機の予定を組むと、それも変更となった。
「イラクではブラジル以上に、予定が頻繁に変わるのだ」とジーコからお詫びのメールも届いた。その後もジーコのブラジルへの帰国日程は微妙にずれた。結局、マレーシアで行われるW杯最終予選の組合せ抽選に出席した後、ブラジルに帰国するというので、リオまで会いに行くことにした。

――前回会った時(10年ワールドカップ期間中)、「孫(長男・元鳥栖のジュニオールの息子)が出来たので、しばらくブラジルにいたい」と言っていました。だから、イラク監督に就任するというニュースを聞いた時は驚きました。
ジーコ: そうだろうね。最初はアラブ首長国連邦代表と中国代表という2つの国から打診があり、アントニオ(・シモーエス、ジーコの代理人)が話を進めていたんだ。アラブ首長国連邦からは条件提示もされて契約寸前。向こうからは現地に来て契約締結しましょうという連絡が来た。ところが、その1週間後のことだよ。(フランク・)ライカールトが監督に就任したことを新聞で知ったんだ。あのまま、行っていたらひどいことになったろうね(苦笑)。
 中国も条件を提示してきたけれど、交渉相手が中国サッカー協会の人間ではなかった。協会から正当な依頼を受けて動いている代理人かはっきりしなかったんだ。アラブ首長国連邦の件があるから、当然疑うよね。一方、イラクは、かつて(ジーコの兄の)エドゥーの通訳を務めていた人間が窓口だった。最初、彼はエドゥーに監督の話を持って来たんだ。
(写真:実はイラク協会はエドゥーに監督就任を打診していた。リオのバハ・ダ・チジューカにあるエドゥーの自宅にて)

――エドゥーはイラク代表の監督をやっていましたよね(85年にイラク代表監督に就任。86年メキシコW杯出場にチームを導いた)。
ジーコ: ああ。ただ、エドゥーは「最近、監督としての仕事はしておらず、ぼく(ジーコ)を補佐している」という返事をしたんだ。そこでぼくに監督をやらないかと声が掛かった。イラクとの交渉が進んだ理由は、相手がエドゥーと25年前からの付き合いがある男だったことだな。間違いなく協会の意向で彼はぼくに話をしていた。そして、イラクの選手のポテンシャルが高いこと。彼らの力を発揮させればいい結果を出せるはずだった。問題は金銭面だった。最初の提示は非常に低かった。様々な条件を詰めて折り合うまで約1カ月半掛かった。契約にサインして、現地に入ったのはアジア3次予選開始の5日前だった。

――選手のポテンシャルが高いというのは、イラクのサッカーにはいい印象があったんですか?
ジーコ: そうだね。エドゥーが率いていた時の印象がある。1994年W杯最終予選で日本はイラクに引き分けて出場権を逃した(“ドーハの悲劇”)。あの試合の監督はエドゥーの知り合いだ。得点を決めた選手はエドゥーが率いていた時にもいた。もちろん日本代表監督の時も、イラクのサッカーの情報は得ていた。イラクは(07年)アジアカップでも優勝している。あの時の監督ビエイラ・ジョルバンはブラジル人で、ぼくの友人だった。今回、引き受ける前に彼にも話を聞いた。エドゥーの後も、多くのブラジル人監督がイラクでは結果を残しているんだよ。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に勤務。2000年より退社して、文筆業に入る。『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)など著書多数。最新刊は、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社 2011年12月2日発売)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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