「チャンピオンになったら人生変わる。クラブで女の子をナンパしまくって、ファイトマネーもめちゃくちゃもらえるものだと思っていたんスよ」
“モテたい”願望でキックボクシングを始めた金髪の若者は、プロデビューから2年半で5つのタイトルを獲得した。バラ色の人生が待っているはずだった。

(写真:「日本でも一番速いと思う」という鋭い前蹴りが武器)
 しかし、現実は厳しかった。キックボクシング界を人気面で牽引していたK-1が主催会社の財政難でイベントを開催できなくなるなど、格闘技界全体が冬の時代に突入する中、5冠の肩書きは世間への大きなアピールにも、お金にもならなかった。現在、闘魔は昼間は地元の調布市仙川にあるラーメン店「ばかたれ」でアルバイトをし、夜は各地で一般向けのエクササイズも兼ねたキックボクシングを教えて生計を立てている。
「平日は毎日、ラーメン屋にいますから。豚ガラ、鶏ガラ、人柄を大事にしています(笑)」
 そう言って差し出された名刺には「闘うラーメン小僧」と書かれてあった。

 世界進出への賭け

 苗字の當麻からリングネームは「闘魔」。一度見たら、忘れられない名前である。魔の文字は、この道に進むきっかけとなったキックボクサー魔裟斗からとった。
「魔裟斗さんとか、(山本)KID(徳郁)さんとか格闘技の枠を超えたスターになっている。その姿に純粋に憧れたッス」
(写真:先の第2回「マルハンワールドチャレンジャーズ」公開オーディションに第1回応募者として出席し、審査員を務めた魔裟斗と初対面)

 小さい頃から格闘技をやっていたわけではない。大学の途中まではサッカーに取り組み、Jリーガーを目指していた時期もあった。だが、もともと自己主張の強い性格はチームスポーツに合わなかった。そんな時、バイト先のスポーツジムでキックボクシングに誘われた。

 ケンカ好きが講じて、アマチュアの試合では連戦連勝。テレビで観ていた華やかな世界が目に浮かび、ヒーローになれる一番の近道と直感した。大学の友人たちが就職活動で汗を流す中、自らはプロのキックボクサーとして“就職”することを早々に決めた。ゆえに、ずっと競技にストイックに取り組んでいた選手たちとは若干、格闘技に対する感覚が異なる。「打倒ムエタイとか、(本場の)タイ人と試合するとか全く夢を感じない。日本で盛り上げてスターにならなきゃ」といった発言を繰り返し、関係者から煙たがられた。

「コメントも“KOしたい”とか“頑張ります”とか平凡なことを言っていてもしゃーない。試合だって、おもしろくして勝たないと。格闘技になじみのない人にも知ってもらわないと意味がないんで」
 その思いからビッグマウスで試合前に盛んに相手を挑発した。リングでは派手な殴り合い、蹴り合いを望んできた。

「でも5本のベルトをとっても、何も生活は変わらない。その時、気づいたッスよ。日本じゃ“金メダル”は取れないんだなって」
 スポットライトを浴びない現状を変えようと、闘魔は世界進出を考えていた。ヨーロッパを中心に人気を集める「IT'S SHOW TIME」への参戦である。その布石を打つため、闘魔は今年に入って「IT'S SHOW TIME」ルールで2試合を行った。ここでプロモーターにアピールし、9月に予定されていた横浜大会に出場する。それが思い描いていたシナリオだった。

「IT'S SHOW TIME」ではヒジ打ちが禁止されている。ヒジを使った攻撃も得意にしていた闘魔にとって、それは一種の賭けだった。さらなる強さを手に入れるため、尻すぼみの格闘技界の窮状を訴えた「マルハンワールドチャレンジャーズ」で得た50万円を元手に、この5月にはオランダへ武者修行に出かけた。

 約半月のオランダ滞在は本人曰く「刑務所生活」のような日々だった。修行先はバダ・ハリやメルヴィン・マヌーフら日本でもおなじみの強豪選手たちが所属するマイクスジム。滞在先の寮で朝、寮長に叩き起こされると、そのまま車に乗せられてジムへ。そこで体格がひと回りもふた回りも大きな相手からスパーリングで容赦なくボコボコにされた。「毎日がハムチーズサンド。もう一生食べたくない(苦笑)」というランチをとり、休憩を挟んだのち、また午後の練習でメッタ打ちにあう。部屋に戻ると遊びに出かける余力も場所もなく寝るしかなかった。

「普通、日本での練習だと16オンスのグローブを使いますけど、アイツら、10オンスで殴ってくる。“ヘンな日本人が来たぞ”と格好の標的になりました」
 一緒に練習に来ていた外国の選手たちは、あまりの厳しさに1週間も経たないうちに“脱獄”した。言葉の壁もあり、肉体的にも精神的にも苦しかったが、「逃げて帰るのだけはカッコ悪い」と耐え抜いた。
「鋼の精神力を手に入れましたね(笑)。ボコられたおかげで防御力もついた」
 初の海外修行は貴重な経験になった。

 フリーからの再出発

 しかし、結果的に世界進出の賭けには失敗した。「IT'S SHOW TIME」ルールで出場した試合は連敗。特に6月の「M-1ムエタイチャレンジ」では最終3Rに一瞬のスキをつかれて左ハイキックをくらい、KO負けを喫する。「IT'S SHOW TIME」の関係者や、憧れの魔裟斗がリングサイドで見つめるなか、大の字で倒れ、担架送りになる無残な敗戦だった。さらには「IT'S SHOW TIME」の本体が買収され、横浜大会自体が延期に。世界進出の望みは一旦、完全に断たれた。

 リング上で失神し、試合の記憶が完全に飛ぶほどの壮絶な敗戦後、闘魔は大きな決断をする。デビュー前から所属していた新宿レフティージムを離れ、フリーの道を選んだ。枠に縛られることなく自らをプロデュースし、レベルアップするためだ。今後は魔裟斗を指導し、自らも昨年まで教えを仰いでいたヌンポントーン・バンコクストアが開いているタイのジムに渡ってトレーニングを積むことも考えている。
「ヌンポンは野球で言えば長嶋茂雄的な教え方をする。日本語をしゃべれないこともあるんだろうけど、“ボン、ボン”って擬音語を使って感覚を伝えてくれるんです。それがオレには最高に合っている。オレも天才肌だから(笑)」

 KO負け後の闘魔は目指すべき方向性が定まらず、やや自暴自棄になりかけていた。だが、そんな背中を思い切って押してくれた人がいた。
「KOでぶっ倒れて“目指すものがないからやめようかな”って相談したら、“努力したら夢は叶うといつも話していたのに、あんな失神したまま終わっていいの”って逆に説教されたんです。確かに、このままじゃダサイし、終われねぇと感じました」

 それだけに次の試合に向けては、もう1度、最高のトレーニングを積み、完璧な内容をみせたいと思うようになった。支えてくれた人たちや、キックボクサーになることに反対していた両親、友人も会場に呼び、人生を賭けた大勝負をする。それができれば、自分がこの先、何をすべきか自ずと見えてくると信じている。

「一般の人が格闘技に求めているのは派手にぶっ倒れるKOシーン。でも単にノーガードでやりあって、どっちかが倒れるのは、プロの格闘技じゃない。それは実力じゃなく、ジャンケンで運試しやっているようなものッスよ。僕はジャンケンではなく、狩りを見せたい。ライオンみたいに駆け引きがあるなかで、一瞬で相手を仕留める。難しいかもしれないけど、そういう格闘技のおもしろさを伝えたいッス」

 リングの中でも外でも魅せるスターに――。理想を追い求めてのフリー転向は、自らの選択とはいえ、今まで以上に茨の道である。現時点では決まった練習施設もなく、次戦も未定だ。だが、どんなに逆風が吹こうとも大きな旗を掲げない限り、モデルとする魔裟斗のような影響力のある選手にはなれない。

「ピンチはチャンス」
 奇しくも自身のブログタイトルは現状を的確に言い当てている。「人生、1回しかないから、やりたいことやりたいッス」。24歳で迎えた人生の転機を成長への力に変え、闘魔は格闘技界に痛烈なキックをかますべく、必ずリングに戻ってくる。 

(次回はフリーダイビングの平井美鈴選手を取り上げます。9月19日更新予定です)


<闘魔(とうま)>
1987年11月3日、東京都生まれ。本名:當麻正惟。大学時代からキックボクシングを始め、09年にTO-MA名義でプロデビュー。10年8月にプロ7戦目でJ-NETWORKスーパーフライ級王座を獲得。同11月より、リングネームを闘魔に変更し、M-1スーパーフライ級王者となる。その後もWPMF日本スーパーフライ級、WBCムエタイ日本スーパーフライ級、WPMF日本バンタム級の各王座を獲得し、短期間で5つのタイトルに輝く。この7月に所属していた新宿レフティージムを離れ、フリーに。戦績は9勝(2KO)5敗1分。身長171センチ。昨年の「マルハンワールドチャレンジャーズ」で協賛金50万円を獲得。
>>オフィシャルブログ「ピンチはチャンス」
(写真:ラーメン店「ばかたれ」のお勧めメニュー「まぜそば」を手に)





『第2回マルハンワールドチャレンジャーズ』公開オーディションを経て、7名のWorld Challengers決定!
>>オーディション(8月28日、ウェスティンホテル東京)のレポートはこちら


※このコーナーは、2011年10月に開催された、世界レベルの実力を持ちながら資金難のために競技の継続が難しいマイナースポーツのアスリートを支援する企画『マルハンワールドチャレンジャーズ』の最終オーディションに出場した選手のその後の活躍を紹介するものです。

(石田洋之)
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