二宮: 角中選手は石川県七尾市の出身です。あの大相撲の元横綱・輪島さんとも同郷になります。野球を始めたきっかけは?
角中: 父が元高校球児で、小学校低学年になったら半強制的に野球をやらされていました(笑)。4人兄弟で、僕と3つ下の弟が野球をやっていましたね。左打ちにさせられたのも初めてすぐの頃です。「左の方が一塁までの距離が短いから得をする」と。
 星一徹ばりの父と毎日練習

二宮: 聞くところによると、自宅に専用のバッティングケージがあったとか。
角中: はい。小学校3年の時に父が練習場をつくり、マシンも買って練習していました。

二宮: でもマシン打撃をするとなると、普通の家の中ではできませんよね。
角中: 親が自営業だった関係で自宅の隣に工場があったので、その中にある機械類をすべて出して全面にネットを張り、練習場につくりかえてくれたんです。そしてマシンに父がボールを入れてくれて、毎日、学校から帰ったら夕方の5〜7時くらいまで練習していました。

二宮: でも小さい頃だと練習よりも遊びに行きたい時もあったのでは?
角中: サボったりは全くできませんでしたね。よく言われるんですけど、星一徹みたいな父だったので……(苦笑)。

二宮: アハハハ。高校は日本航空第二(現日本航空石川)に進みます。石川といえば星稜や金沢が有名ですが、この学校を選んだ理由は?
角中: もともとは金沢に行く予定だったんですが、ちょうど僕が進学する時に新しく学校ができ、野球にも力を入れる予定だと聞いたんです。地元の能登地方からは、まだ甲子園に出場した高校はなかったですし、先輩もいないので1年生から試合に出られる可能性が高いと思い、進路変更しました。

 高校時代の福井優也はナンバーワン

二宮: 航空業界の人材を育成する目的で設立された学校だけに、飛行機に関する授業や実習もあったそうですね。
角中: はい。高校の時に小型飛行機の免許は取ろうと思えば取れました。それで免許を取った生徒は学校祭の時に腕前を披露したりするんです。

二宮: では実習で飛行機のコクピットに入ったりしたと?
角中: ヘリコプターもセスナも乗りました。能教官立ち合いの下、モーターグライダーの操縦桿を握らせてもらって能登半島の上空を飛んだこともあります。もちろん細かい操縦は先生がやっているんですけど、車の運転よりは簡単に感じました。離陸、着陸を除けば、操縦はそんなに難しくないみたいです。

二宮: それは楽しそうですね。プロ野球選手で飛行機の操縦桿を上空で握ったことがあるのは角中選手くらいかもしれません(笑)。ただ、野球では残念ながら甲子園に行けなかった。
角中: 練習試合では強豪校とも対戦して力は着実につけてきたと思うんですけど、公式戦になるとなぜか勝ち進めませんでした。

二宮: 同じ高校生で対戦した中で印象に残っている選手は?
角中: 石川県内なら、甲子園にも出た遊学館の鈴木将光ですね。足も速いし、肩も強いし、バッティングもすごい。身体能力がめちゃくちゃすごくて本当に目立っていました。こういう選手がプロに行くんだろうなと思っていたら、広島に(高校生)ドラフト1巡目で指名されましたから。

二宮: 同学年のピッチャーだと辻内崇伸(大阪桐蔭、現巨人)、福井優也(済美、現広島)らが当時から有名でしたね。
角中: どちらも練習試合で対戦したことがあります。辻内のボールは確かに速かったんですけど、僕が個人的にナンバーワンだと感じたのは福井ですね。スピードだけでなくキレがありました。スライダーもシュートも曲がりが鋭くてバットに当たる気がしない。これが“甲子園で勝つピッチャー”なんだと驚いたことを覚えています。

(第3回につづく)
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角中勝也(かくなか・かつや)
 1987年5月25日、石川県出身。右投左打の外野手。日本航空第二高(現日本航空石川)から06年に四国アイランドリーグの高知に入団。1年目で打率.253、4本塁打、28打点の成績を残す。持ち味の打力を買われ、同年の大学生・社会人ドラフト7巡目で千葉ロッテから指名を受ける。ルーキーイヤ―の07年に同じアイランドリーグ出身の西山道隆(福岡ソフトバンク)から初安打。翌年には初本塁打を放つ。昨季は8月以降、1軍に定着。自己最多の51試合に出場し、打率.266だった。6年目の今季は開幕こそ2軍だったが、5月以降は1軍で5番打者に定着。勝負強い打撃でチームに貢献し、独立リーグ出身者では初のオールスター出場を果たした。180センチ、80キロ。背番号61。







(構成:石田洋之)
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