「このままでえぇんやろか……」
 ちょうど1年前、西田宗城はひとしきり悩みを抱えていた。車いす陸上を始めて6年。はじめは趣味の域であったが、徐々に力をつけてきた西田は2010年9月からは「パラリンピック強化指定選手」に選ばれている。自身も、ここ1、2年はパラリンピックへの思いが強まり、競技者としてさらなるレベルアップを目指してきた。だが、世界の舞台で活躍するトップ選手たちとの距離は、なかなか縮まらない。その要因のひとつには、練習量の絶対的な差があった。

 当時、西田は地元である大阪府和泉市の職員として週5日、フルタイムで働いていた。職場に不満があったわけではない。だが、勤務を終えてから確保できる練習時間は2時間ほど。どれだけ内容の質を上げても、やはり世界と勝負するには、十分とは言えなかった。トップ選手は皆、企業とアスリート契約などを結ぶことで、練習に専念できる環境を整えている。西田は自分自身にも、そうした練習環境の必要性をひしひしと感じるようになっていた。しかし、なかなか気持ちは固まらなかった。「その時」のタイミングを図りかねていたのだ。

 転機が訪れたのは、昨年10月のことだった。「第1回マルハンWorld Challengers」に応募した西田は、一次審査をパスし、最終オーディションに臨んだ14組の中から、見事100万円の支援金を獲得したのだ。この出来事が彼の背中を押した。
「正直、『仕事を辞めるのは、自分にはまだ早いのかなぁ』と思っていたんです。でも、World Challengersのオーディションに受かったことで、『よし、今だ』と決断することができました。オーディションから大阪に帰って、すぐに人事部に退職のことを言いに行きました」
 今年3月、西田は7年間勤めた職場を退職し、本格的に競技者の道を歩み始めた。「World Challengers」への挑戦は、西田にとって支援金を獲得したこと以上に、一歩を踏み出す勇気を与えてくれたきっかけとなる大きな出来事となった。

 アスリートへの目覚め

(写真:6分以上も自己ベストを更新し フルマラソン初Vを達成した)
 西田が競技者として芽を出し始めたのは、昨年9月、兵庫県篠山市で開催された「全国車いすマラソン」だ。同日、大分では「ジャパンパラリンピック陸上競技大会」(ジャパラ)が行なわれていたため、トラック競技でロンドンパラリンピックを目指す国内トップ選手は皆、不在だった。そのため、西田ははじめから優勝しか狙っていなかったという。目標タイムは1時間35分を切ること。ところが、トップでゴールテープを切った西田が出した記録は、1時間32分17秒。なんと、それまでの自己記録を約6分半も更新してしまったのだ。これにはさすがに本人も驚きを隠せなかったという。
「トップ選手が不在の中でも、恥ずかしくないタイムで優勝しようと思っていました。でも、6分以上も更新するとは……。自分でもビックリしました(笑)」

 しかし、予兆はその3カ月前にあった。6月に大阪府堺市で行なわれた日本選手権で、西田は1500メートルに出場した。すると、これまで破ることができなかった3分9秒台の好タイムをマークし、初めてパラリンピックのB標準記録を突破したのだ。さらに同月、北海道札幌市で行なわれた「はまなす車いすマラソン」、坂の多い難しいコースながら、ここでも西田は自分の走りにこれまでには感じたことのない手応えを感じていた。それらの要因は、グローブにあった。

「実は夏前にグローブを替えたんです。知人のランナーが僕のグローブを見て、『そんなん使ってたら、あかんよ。これ、ちょっと使ってみ』って、自分が使ってないグローブをくれたんです。そしたら、全然走りが違いました」
 現在、日本では樹脂を溶かし、自分の手にフィットしたかたちにして固め、車いすレーサーのタイヤに当てる部分にゴムを張ったグローブが主流となっている。レーサーを漕ぐ時に、ギュッとタイヤに隙間なく沈み込むような感触で、上半身全体の力が伝わるようにすることが求められるのだが、その形にするのが非常に難しい。トップ選手においても、グローブ作りは容易ではない。

 それまで西田が使用していたグローブは形が悪く、力が逃げてしまっていた。そのため、いくら力強く漕いでも腕だけの力しか伝わらず、スピードが上がらなかったのだ。しかし、知人からもらったグローブは、きちんとタイヤに力が伝わるような形に作られていた。ギュッと沈み込むその感触は、これまでには感じたことのないものだった。西田は自分の持っている最大限の力を発揮するアイテムを、ようやく手に入れたのである。そして、それを参考にし、現在は自らが製作したグローブを使用している。

 学び多き大分での転倒

 そうした手応えと、実際に結果を得て臨んだのが、昨年10月30日、ロンドンパラリンピックの選考会を兼ねた「第31回大分国際車いすマラソン」だった。国内トップ3に入れば、マラソンの代表が内定する。実力からすれば、西田はまだトップ選手と競うまでの力には及んではいなかった。だが、勝負は何が起こるかわからない。レース当日、大分市は朝から雨に見舞われ、異様な空気が流れていた。

 午前11時、大分県庁前を一斉にスタートしたランナーたちは、降りしきる雨の中、勢いよく走り出した。いきなりスタートダッシュをかけたのが、前覇者のマルセル・フグ(スイス)と樋口政幸の2人だった。結果的にフグが連覇を果たし、樋口は国内トップでゴールすることになる。

 西田は、2人の後ろを追いかける集団の後方にいた。しかし、最初の上り坂で集団から離され、その後、外国勢2人と3人でローテーションをしながら前を追いかけた。途中、西田は自ら仕掛けにいった。最大の難所と言われ、コーナーの多いテクニカルコースに入る前の上り坂を上り切ったところで、アタックをかけたのだ。後続を振り切ることに成功した西田は、テクニカルコース内で前から落ちてきた外国人選手とローテーションをしながらゴールの大分市営陸上競技場へと向かった。

 最後は競技場のトラックを1周すれば、ゴールとなる。余力を振り絞って、西田はスピードを上げた。ところが、最終コーナーを回ろうとしたその時、同時に行なわれていたハーフマラソンの選手が西田の進路を阻んだ。スピードダウンしてしまった西田を後ろから2人の選手が一気に抜いた。と、その時だった。西田を抜いた選手の1人が、雨で濡れたトラックでタイヤを滑らせたのだろう、クラッシュしてしまったのだ。再びスピードを上げようとしていた西田にそれを避ける術はなく、そのまま突っ込み、激しく転倒。レーサーの前輪は粉々に砕け散った。わずか100メートルを残し、西田の42.195キロの戦いは幕を閉じた――。

 そのままゴールをしていれば、9〜11位あたりだったという。ロンドンの選考条件である3位以内には遠く及ばないものの、前年33位からの躍進ということを考えれば、さぞかし悔しかったに違いない。ところが、西田の答えは予測していたものとは全く違っていた。
「クラッシュ以前の問題ですね。最後に抜かれないように、競技場に入る前に、もっと後続の選手を離しておかなければいけなかったですし、さらに言えば、もう一つ前の集団で走れるくらいの実力をつけないといけません。それにクラッシュも、自分が前を見る余裕さえあれば、避けられたかもしれない。とにかく、もっともっとレベルアップしないといけないことを痛感しました」
 西田にはクラッシュしたことよりも、そうなってしまった自分への反省の気持ちの方が大きかったのだ。

 今月28日には「第32回大分国際車いすマラソン」が行なわれる。大会3連覇を狙うロンドンパラリンピック銀メダリストのフグ、マラソン世界記録保持者のハインツ・フライ(スイス)、そして国内からはロンドンパラリンピック代表の樋口、副島正純、洞ノ上浩太、花岡伸和をはじめ、錚々たるメンバーが顔を揃える。その中で、西田はトップ10入りを目指す。
「大分は国内唯一の国際大会。国内外から有力選手が大勢集まりますから、他の大会とは意味合いが違うんです。僕にとってはとても大きな存在ですね」
 フリーとなり、本格的に練習を始めてから初めて臨む大分で、西田はどんな走りをするのか。4年後のパラリンピック出場を目指す彼にとって、世界に羽ばたくスタートラインとなる。

(後編は11月7日更新予定です)



西田宗城(にしだ・ひろき)
1984年3月11日、大阪府生まれ。小学生から野球をはじめ、大学では準硬式野球部の「4番・捕手」として活躍。大学3年時に交通事故に遭い、車いす生活となる。退院後、地方公務員試験に合格し、翌2005年から大阪府和泉市役所に勤める。06年、車いす陸上を始め、国内の大会に出場するようになる。昨年6月の日本選手権1500メートルでパラリンピックB標準記録を突破。同年9月の全国車いすマラソンで初優勝し、パラリンピック強化指定選手となる。今年3月に市役所を退職し、本格的に競技者の道を歩み始めた。4年後のリオデジャネイロパラリンピック出場を目指している。

『第2回マルハンワールドチャレンジャーズ』公開オーディションを経て、7名のWorld Challengers決定!
>>オーディション(8月28日、ウェスティンホテル東京)のレポートはこちら


※このコーナーは、2011年10月に開催された、世界レベルの実力を持ちながら資金難のために競技の継続が難しいマイナースポーツのアスリートを支援する企画『マルハンワールドチャレンジャーズ』の最終オーディションに出場した選手のその後の活躍を紹介するものです。

(斎藤寿子)
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