「うわぁ、めちゃくちゃ、かっこえぇなぁ」
 ある日、何気なくテレビをつけると、ひとりの車いすランナーが気持ちよさそうに風を斬って走っていた。両腕には隆々とした筋肉がついていた。その姿に西田はひと目で憧れを抱いた。交通事故で車いす生活を余儀なくされてから約2年、一時は車椅子バスケットボールにチャンレンジした時もあったが、心躍る感情は湧いてはこなかった。しかし、車いす陸上だけは違っていた。「かっこいいな、楽しそうやな」。まさにひと目ぼれだった。
(写真:初めて見た車いすランナーの走りにくぎ付けになった)

 早速、西田はインターネットでどうすれば自分も始められるのかを調べた。いきついた九州身体障害者陸上競技連盟の掲示板に「マラソンをやってみたいです」と投稿すると、地元の障害者スポーツセンターの指導員を紹介された。そして見学に訪れたその日、初めて「レーサー」と呼ばれる競技用車いすに乗せてもらったという。それまで乗っていた生活用の車いすとは違い、少し漕いだだけでもグンとスピードが出た。加えて前傾姿勢のために顔と地面の距離が近い。そのため、予想以上にスピードが感じられた。それらの感覚はテレビで観たイメージ通りのものだった。

 野球との別れ、そして陸上との出合い

 西田はもともとスポーツが得意で、根っからの野球少年だった。大学でも準硬式野球部に入り、卒業後は独立リーグやクラブチームのテストを受けようと考えていた。「捕手で4番」と、チームの中心だった西田が交通事故に遭ったのは、大学3年のことだった。車いす生活になることを宣告された時、彼の頭に最初によぎったのは“野球”だった。
「もう足が動かないとか、歩くことができない、ということよりも、まず落胆したのは“もう野球ができないんだ”ということだったんです」
 それほど、野球は西田の人生にとってなくてはならないモノだった。

(写真:小学生の時から野球に熱中してきた)
 西田は退院後、何かスポーツをしようと考えていた。そこでまず最初に調べたのが野球だった。インターネットで検索すると、確かに車いす競技としての野球があることがわかった。しかし、それは彼がそれまでしてきたものとはあまりにもかけ離れていたという。
「神戸に車いすで野球をやっているチームがあったんです。どういうふうにプレーするんだろう、と思ったら、車いすに乗ったままボールを打つまではいいんですけど、そこから代理の人に一塁に走ってもらうんです。守備も限られているようで、なんだか僕がそれまでやってきた野球とはあまりにも違うなぁ、と」

 野球を諦めた西田が耳にしたのは、車椅子バスケットボールだった。入院中、一度大会を見学に行った西田は、「これなら自分の残された機能を最大限に使えるかもしれない」と感じ、退院後、早速地元のチームに入った。だが、野球一筋だった西田にとって、バスケットボールはまったくの専門外。予想以上に難しかった。
「最初は野球と同じくボールを使うスポーツですし、みんなとワイワイやれて楽しいなぁなんて思っていたんですけど、段々と要求されることも高くなっていって……。それまでバスケットは遊びでしかやったことがなかったので、スクリーンをかけるとか、ゴール前には何秒以上いたらダメとか、そんな基本的なことさえもわからなかったんです。だから、結構苦労することが多くて、あまりなじめませんでした」

 ちょうど同じ頃、西田は市役所に勤め始めたこともあり、仕事の忙しさも相まって、徐々にバスケットから離れていった。しかし1年が経ち、ようやく仕事にも慣れ始めると、再びスポーツへの興味がわいてきた。体重も増え、健康のためにも体を動かしたいと思っていた。車いす陸上と出合ったのは、ちょうどその頃だった。そのため、当時の西田は、「速くなりたい」という気持ちはひとつもなかった。

「やっぱり体を動かすことは気持ち良かったですね。それに、センターに通い始めると、同じように陸上をやっている人たちと知り合いになれるんです。いろいろな人たちと関わることができるのが、また楽しくて……。週2回だった練習が、3回、4回と増えていきました。練習すればするほどスピードが上がりましたし、痩せていきましたしね(笑)」

 大阪からパラリンピックへ

 そんな西田が競技者として世界最高峰の舞台であるパラリンピックを意識し始めたのは、昨年だという。6月の日本選手権、1500メートルで初めてパラリンピックのB標準記録を突破したことで、日本身体障害者陸上連盟から「パラリンピック強化指定選手」に選ばれたのがきっかけだった。

 その西田の成長に欠かせない人物がいる。同じ「大阪ランナーズ」に所属する辻川剛だ。辻川は西田よりも障害の重いクラスであるため、同じレースで競い合うことはない。だが、経験豊富な辻川のアドバイスは西田にとっては貴重だった。では、陸上を始めた頃から西田を見てきた辻川に、現在の彼はどんなふうに映っているのか。
「彼に初めて会ったのは、もう5、6年前になるのかな。最初は人見知りで、何も話さなかったんですよ(笑)。その頃との一番の違いは、やっぱり体つきですね。腕なんか細かったですから。今とはまったく違います。でも、あの恵まれた体でダイナミックな漕ぎ方は、当初からありましたね」

 そして、辻川が何度も口にしたのが「リオに行ってもらわないと困る」という期待の言葉だった。
「彼も仕事を辞めたからには、絶対にリオに出るつもりでいると思いますが、僕たちにとっても行ってもらわないと困ります。というのも、大阪からはなかなかパラリンピックに出るようなランナーが出ていないんです。もともと大阪出身という人は結構たくさんいるのですが、いい練習環境を求めて大分や福岡、関東に行ってしまう。だから、優秀な選手と共に練習して切磋琢磨するということが、大阪ではなかなかできない。そんな中で彼がパラリンピックに出場するのは、並大抵のことではないと思います。実際、日本人でトップ10入りはしているものの、世界の舞台で活躍しているようなトップ選手との差は大きい。でも、彼は本当に一生懸命だし、何より若い。まだまだ伸びしろは十分にありますから、楽しみですよ。とにかく、僕としてはリオに行ってもらわないと、と思っています」
 こうした周囲からの期待は、西田のモチベーションを上げている。

 キャッチャー出身の強み

 車いすランナーにとって欠かせない技術のひとつが駆け引きである。どこでスピードを上げて集団を引き離すのか、どの選手がいつどこで仕掛けてくるのか……。特にマラソンではポジション取りも含めた細かい駆け引きが、スタート時から絶えず行なわれている。実はその駆け引きこそが西田の武器となり得る。前述した通り、彼は野球選手時代、キャッチャーを務めてきた。周知の通り、キャッチャーは相手ベンチやバッターとの駆け引きを行ないながら、そのシチュエーションに合った配球を考える。西田もこれまで何度もバッターの動きや雰囲気から醸し出される“におい”を感じとってきたことだろう。そのキャッチャー時代に培われてきた嗅覚は、マラソンでも十分に活きるはずだ。
(写真:トラックでのスピード練習。駆け引きに強くなるためにも欠かせない)

「僕はスタートから一人で突っ走って、逃げ切るというレース展開よりも、駆け引きをしながら走るレース展開の方が好きなんです。単純に突っ走って逃げ切る力をまだ持っていないだけなんですけどね(笑)。でも、駆け引きが好きなのは、キャッチャーをしていたからかもしれないですね。バッターボックスに立ったバッターをパッと見た瞬間、何を考えているのかとか、ランナーが走りそうなリードしているなとか、動きや雰囲気でわかることもあったんです。それが面白かった。マラソンでも、そういう駆け引きがひとつの醍醐味かなと思っているので、その部分を自分の長所として戦える選手になりたいですね。今はまだ、自分のことで一生懸命で、駆け引きするレベルにまでは達していないのですが……」

 理想通りの走りをするためには、課題は山積している。そのひとつがスピードだ。現在、西田のトレーニングメニューはトラックでのインターバルが中心となっている。
「トップスピードを上げないと、マラソンでもレース中での駆け引きで揺さぶることもできなければ、相手の揺さぶりについていくこともできないんです。だからこそ、1周400メートルを走って、止まって、また走って……を繰り返すことで瞬発力をつけ、素早くトップスピードにもっていくことのできる走りを追求しています」

 近年、パラリンピックの舞台で見る日本の車いすランナーたちの顔ぶれは、あまり変わっていない。もちろん熟練された技と、豊富な経験から培われた強いメンタルによるベテランの走りは見ていて重みがあり、十分な魅力がある。だが、そろそろ勢いのある若手の台頭も欲しいところだ。28歳の西田がベテラン選手たちの中に割って入ることができれば、日本人選手の底上げにもなる。西田の今後の躍進は、日本の車いす陸上界の未来へとつながるはずだ。キャッチャー出身のランナーが世界へと羽ばたく瞬間は、そう遠くはない。

(次回からは近代五種・黒須成美選手と二宮清純のインタビューをお届けします。11月21日更新予定です)



西田宗城(にしだ・ひろき)
1984年3月11日、大阪府生まれ。小学生から野球をはじめ、大学では準硬式野球部の「4番・捕手」として活躍。大学3年時に交通事故に遭い、車いす生活となる。退院後、地方公務員試験に合格し、翌2005年から大阪府和泉市役所に勤める。06年、車いす陸上を始め、国内の大会に出場するようになる。昨年6月の日本選手権1500メートルでパラリンピックB標準記録を突破。同年9月の全国車いすマラソンで初優勝し、パラリンピック強化指定選手となる。今年3月に市役所を退職し、本格的に競技者の道を歩み始めた。4年後のリオデジャネイロパラリンピック出場を目指している。

『第2回マルハンワールドチャレンジャーズ』公開オーディションを経て、7名のWorld Challengers決定!
>>オーディション(8月28日、ウェスティンホテル東京)のレポートはこちら


※このコーナーは、2011年10月に開催された、世界レベルの実力を持ちながら資金難のために競技の継続が難しいマイナースポーツのアスリートを支援する企画『マルハンワールドチャレンジャーズ』の最終オーディションに出場した選手のその後の活躍を紹介するものです。

(斎藤寿子)
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