吹きつける風が冷たさを増し、今年も年末が迫ってきたことを実感する。熱かったロンドン五輪の記憶も、はや少しずつセピアの色を帯びつつある。
 本来、サッカーという競技において五輪という大会はさほど重要なものではない――というのが世界の共通認識である。ただ、日本の場合はいささか様相が違う。初めて世界と戦ったベルリン、初めて世界のベスト4に入ったメキシコ、長い低迷期から脱出するきっかけとなったアトランタ五輪…。五輪なくして、日本のサッカーを語ることはできない。今年のロンドン五輪で実現した、男女ともに準決勝に進出するという快挙もまた、今後の日本サッカーに大きな影響を及ぼしていくことだろう。

 特に準優勝に輝いたなでしこたちの奮闘は、いまも思い出すと熱いものが込み上げてくる。波に乗りまくった男子の頑張りも素晴らしかったが、苦闘に次ぐ苦闘を生き延びていったなでしこの戦いぶりに比べると、「背負っているもの」の軽さが透けて見えたような気がした。

 もちろん、男子の選手も五輪にかける思いには相当なものがあっただろう。だが、なでしこの選手たちには、「ここで結果を出さなければ女子サッカーの火が消える」という強烈な危機感と使命感があった。常に破滅の予感を抱きながら戦ったなでしこと、敗北によるリスクがさほどではない状況で大会に臨んだ男子。苦境に追い込まれるたびにたくましさを見せたなでしこと、流れを手放してからは恐ろしくモロかった男子。なでしこほどには、男子は自分たちの社会、未来を背負っていなかったということなのだろう。

 背負うものの大きさは、時に強さにつながる。

 ここ最近、わたしは長谷部のプレーぶりに不満を覚えるようになっていた。所属チームで実戦から遠ざかっていたせいもあるのだろうが、一時期の存在感が完全に影をひそめていたからである。おそらく、同様の印象を抱いていたファンは少なくなかったのではないか、とも思う。

 長谷部自身がそうした空気に気づいていなかったはずはない。先月の欧州遠征での彼は、相当に追い詰められた心理状態にあったはずである。

 だが、そこで彼は踏みとどまった。ブラジル戦での長谷部は、これぞ長谷部、これぞ主将というプレーを見せてくれた。彼のサッカー人生に於ける最初にして最大の危機は回避された――そう思わせるプレーぶりだった。

 危機感は、時に薬となる。選手を蝕むことがある一方で、見えなかった力を引き出すこともある。なでしこが、長谷部が、そう教えてくれる。

<この原稿は12年11月8日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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