人は、試練という“山”を乗り越えて、大きく成長を遂げる。東洋大学陸上競技部の市川孝徳にとって、2011年1月3日に刻まれた敗戦が越えるべき“山”だった。「初めて勝負の世界を知り、そこで負けたことが、一番のターニングポイントですね。早稲田大学の高野(寛基)さんには、いい勉強をさせてもらったというのが、率直な気持ちです」と、市川が振り返る2年生時の「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)。そこで自らの甘さを痛感した彼は、「変わらなくてはいけない」との思いを強くしていた。3年生のシーズンは、市川のランナーとしての分水嶺となった。


 周囲は当時の市川の変化をこう証言する。現在は主務としてチームをサポートする鈴木麻里衣が「2年生の箱根駅伝以降、明らかに練習に取り組む姿勢が変わりましたね」と話せば、酒井俊幸監督も「3年生になり、チームを引っ張るという自覚が芽生えてきました」と、精神面での成長を認めた。そして、ひと夏の経験が彼をさらに一皮むけさせるのであった。

 身心を鍛えた山籠もり合宿

 その年の夏、市川は酒井監督の勧めで愛知の実業団・愛三工業の陸上部の合宿に単身で参加した。愛三工業は、「独創的なトレーニングをする」ことで有名だという。当時の監督・仙内勇(現総監督)が東洋大のOBだった縁もあり、市川は2週間の武者修行に出た。市川の背中を押した酒井には「殻を破って欲しい」との願いがあった。合宿地は長野県と岐阜県にまたがる御嶽山で行なわれ、頂上の標高は3067メートルにも及ぶ。気温が低く空気の薄いタフな環境で起伏が激しい山道を走るなどのハードなトレーニングは、スタミナだけでなくメンタル面も鍛えられていった。

 合宿での食事は自炊で、トレーナーも帯同しない。自分のことはすべて自分でやらなくてはならなかった。市川はそこで自主性や責任感が生まれ、何をするべきかを考えることを自然と身に付けたのだった。

 その頃から、市川は日誌を書き始めるようになった。記録することで、振り返ることができた。文章に起こすことによって、頭の中を整理することもできた。市川はそこで得たものを「ただガムシャラに練習をするのではなく、その意味を考えてやることを学びました」と語った。山籠もりの合宿で、市川は競技者としてだけでなく、人間的にも成長を遂げることができたのだ。

 自信をつけた出雲、過信で負けた全日本

 そして迎えた10月の「出雲全日本大学選抜駅伝競走」(出雲駅伝)は、市川曰く「自分が強くなるきっかけのレース」と、特別な大会となった。東洋大にとってもチームとしての成長が見てとれた学生三大駅伝の開幕戦だった。東洋大は1区で柏原竜二が6位と出遅れたが、エースの不調を仲間たちが救った。2区で上位との差を詰めると、3区、4区で区間賞の走りをみせ、先頭に立った。2位・早大に3秒のリードで襷を受けた5区の市川もうまく流れに乗り、勢いを加速させた。

 市川まで3人連続での区間賞獲得。最終6区の設楽啓太がトップを守り切り、東洋大は出雲駅伝を初制覇した。東洋大は柏原だけに頼らないチームに成長したことを証明してみせたのである。市川自身も、今までにない感覚で走れたという。その結果が、三大駅伝自身初の区間賞だった。走りに手応えがあり、気持ちよく走れた。レースでの駆け引きなどを含め、駅伝でのコツを掴み始めた気がしたのだった。

 だが、そう易々と栄光への道は拓かれない。11月の「全日本大学駅伝対校選手権大会」では、市川は7区を任された。トップと1分31秒差の2位で襷を受けた市川は、区間2位の走りで追いかけたが、1位の駒澤大学との差を詰められず、逆に9秒のビハインドを許してしまった。アンカー柏原の猛追も届かず、東洋大は33秒差の2位に終わった。

 市川は「“これぐらいでいけるだろう”との過信があった気がします」と悔いた。駅伝は団体競技だが、己との戦いのスポーツでもある。僅かな気の緩みが数秒のロスとなる、勝負の怖さを改めて知ったのだった。ただ、その敗戦がチームと市川の気を引き締めた。「全日本でチームが負けて、自分も区間2位という結果があったからこそ、箱根では“やってやるんだ”との気持ちが芽生えました」

 36秒のリベンジ、新時代のスタート

 シーズンのクライマックスは、当然、箱根駅伝だ。東洋大は往路を2区でトップに躍り出ると、そこからは独壇場だった。4年連続山登りを任された柏原は、4年目で初めて先頭で襷を受け取った。追いかける立場から、逃げる立場に変わっても、彼の強さは不変だった。自らの区間記録を29秒上回るタイムをマークし、東洋大は圧勝で往路4連覇を果たした。2位の早大には5分7秒もの大差をつけていた。

 翌日の復路のスタート直前、3年連続で6区を任された市川は大きく深呼吸をして、空を見上げた。その表情は穏やかで、彼の覚悟が見てとれた。5分以上のリードにも市川に慢心はなかった。「この年のチームのスローガンが“その1秒を削り出せ”だったので、自分が貯金を使うのではなく、自分から貯金を作ってアンカーまで繋げようと。そして最初から最後まで攻めの走りをしようと考えていました」

 その言葉通り、市川は出だしから飛ばした。最初の5キロを16分25秒で入ると、9.1キロ地点の小涌園前では26分59秒で通過した。これは駒澤大の千葉健太が前年に作った区間記録を上回るペースだった。昨年は追いつかれた場所で、市川は快調な走りを見せていた。

 しかし、13キロ過ぎにペースが落ち始めた。山を下り終えると、平地の残り3キロが待っている。下り坂で負荷がかかり続け疲弊しきった足で、いかに踏ん張れるかが勝負所となる。いわば、ここからが6区の本当の山場なのだ。平地に入った18キロ過ぎ、苦しい走りが続く市川へ後方の運営管理車に乗る酒井監督から檄が飛んだ。「昨年、ここから抜かれたから、切り替えていけ! まだ区間トップと10秒しか差はない。ここで粘れば区間賞獲れるぞ!」

 指揮官の発破に応えるように、市川は残り少ないガソリンを着火し、再びエンジンをフル稼働させた。そのスパートは過去の自分を振り切った瞬間だった。小田原中継所までの20.8キロを59分16秒で駆け抜けた。自己ベストを42秒更新し、見事区間賞を獲得した。2位との差は6分24秒に開いていた。市川は36秒差をつけられた昨年のリベンジを果たし、77秒を削り出したのだ。

 市川の闘志溢れる走りで繋がれた鉄紺の襷は、その後も他校を寄せ付けず“一人旅”を続けた。7区の設楽悠太が区間新の走りでリードをさらに広げると、8区大津顕杜、10区斎藤貴志も区間賞を獲得するなど、復路でも圧倒的な力を見せ、5時間26分51秒の新記録で優勝。総合タイムの10時間51分36秒は、昨年の早大を8分15秒も上回る歴代最高記録だった。東洋大は記録づくしの圧勝劇で、2年ぶり3度目の箱根制覇を果たした。

 柏原世代の4年生は有終の美を飾り、そして鉄紺の襷は受け継がれた。今度は市川たちの世代が、その責任を背負い、チームの旗頭となる番となった。それは東洋大にとって、新しい時代の幕開けでもあった。

(最終回につづく)
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市川孝徳(いちかわ・たかのり)プロフィール>
1990年11月3日、高知県生まれ。小学校1年生からサッカーを始め、高校1年生から本格的に陸上競技に転向する。高知工業高校では、3年連続で「全国高等学校駅伝競走大会」に出場した。東洋大学進学後は、1年生から「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)に出場を果たし、復路の山下りの6区を任され、優勝を経験する。2、3年生の時も6区を任されている“山下りのスペシャリスト”だ。3年生の時には、「出雲全日本大学選抜駅伝競走」と箱根駅伝で、区間賞を獲得し、チームの2冠に貢献した。今シーズンから陸上競技部の副将、駅伝主将を務める。身長177センチ、51キロ。



(杉浦泰介)


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