専門誌でガンバの担当をしていたJリーグ初年度、鹿島戦の試合後にいまならば絶対にしない類いの質問をしたことがある。
「ガンバの10番は非常に才能を評価されている選手なのですが、どんな印象を持たれましたか?」
 露骨に顔をしかめながら、それでも返ってきたジーコの答えは、確か「選手を評価する上で重要なのは才能ではなく、どんなプレーをしたかである」といった内容だった。勢い込んでぶつけた質問だっただけに、当時は顔をしかめた様子に憤慨し、はぐらかされたような答えにまるで納得できなかった記憶がある。

 いまならば、公の場で他チームの選手についての論評を求めてしまった愚も、ジーコがいいたかったこともよくわかる。あの時、わたしは「ジーコは才能に恵まれたからジーコなのだ」と思っていた。もちろん、ジーコも自分の才能は自覚していただろうが、それ以上に「自分は誰よりも努力をしたからいまがある」という確信があったに違いない。彼は、才能についてコメントすることの無意味さを知っていた。コメントを求められたこと自体に対する苛立ちもあっただろう。ゆえに、顔をしかめずにはいられなかったのだ。

 中山雅史は、ある意味でジーコの言葉を証明するような選手だった。
 高校、大学ともに名門校ですごし、それなりの結果は残していた。しかし、彼が後に日本代表のエースストライカーになる、あるいはJリーグで最も多くのゴールを決めた選手になる、などと想像した人は、本人を含めてほとんどいなかったのではないか。武田、福田、長谷川、永島……。中山の評価は、実績は、彼らよりも明らかに下だった。

 では、中山はいかにしてライバルたちを追い抜いていったのか。本人の努力があったのは間違いない。運が味方したところもあった。だが、なにより大きかったのは、彼が自分の武器を自覚し、そこに徹底して磨きをかけていったということではなかったか。

 中山の武器、それは王者としてではなく、従者としての仕事ができる、ということだった。つまり、釜本のようにゴール前に君臨するのではなく、自らを捨て駒として考えることができたのが、中山というストライカーの最大の武器だった。それまでの大砲候補たちがやらなかった“汚れ仕事”を厭わず続けたことで、彼は大砲候補を超えるゴールを量産するようになった。

 努力次第、あるいはちょっとした発想次第で、選手は大きく化けることができることを中山雅史は証明した。大学1年生の時、彼はユース代表でストライカーの座を高校2年生に奪われ、ストッパーに回されたことがある。後にガンバの10番をつけた磯貝洋光との、なんという人生のコントラストだろうか。

<この原稿は12年12月6日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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