ブブブブン、ブンブン、ブーンブーン、グイーーーーン!
 静かな岸辺に響き渡るモーター音が心地よい。白地のマシンが水面を滑ると、その後を追いかけるように、水しぶきが天高く舞い上がる。太陽に照らされた水滴はキラキラと宝石の如くまばゆい光を放っていた。その宝石たちにリングをつけるかのように小さな虹が生まれた。水上で幻想的な光景を描きながら、ジェットスキーが颯爽と滑走する。操っているのは18歳の高校生だ。小原聡将、世界最年少のプロのジェットスキーライダーである。

 時速は100キロ以上、体感速度は倍

 162センチ、48キロ。高校生としても小柄な小原と街ですれ違っても、おそらくアスリートだとは気づかなれないのではないか。しかし、彼はれっきとしたアスリート、いや世界的にもトップクラスのライダーなのだ。

 ジェットスキーは日本ではマリンレジャーの乗り物というイメージが強い。しかし、国内はもちろん、海外でもレースが多数開催されている。レースはプロやエキスパート、アマチュアといった各カテゴリーに選手を分けて実施され、1人乗り用の「スキー」、3人乗り用の「ランアバウト」と形態によって部門が分かれる。また、その中でも船の形状やエンジンの改造度に応じて種目が細分化されている。

 レースは水上に設けられたコースを周回し、順位を競う。20艇ほどのジェットスキーが一斉に水しぶきを上げながら、スタートを切る様子は壮観だ。時速はMAXで130キロほどに達する。そのスピードを体全体で受け止めるのだから、実際に感じる速度はその倍ほどになるという。
「スタートで出遅れると、水しぶきで前が全く見えず、真っ白になります。ただ、その中でアクセルを緩めたら、みんなに置いていかれる。だから、まずはスタートでいかに前へ出るか肝心ですね」
 小原はそうレースのポイントを語る。

 高速のまま突入したコース内では水上に設置されたブイにしたがってハンドルを切り、体を傾けてコーナーを次々と曲がる。操作を誤ってコースアウトすれば、“ミスブイ”となり、ペナルティが課される。無理に突っ込んでバランスを崩してしまうと、体ごと水面に投げだされる。ヘルメットやプロテクターをつけているとはいえ、高速のまま落ちれば、水面はコンクリートのように硬い。

「水に突っ込んで落ちた時は本当に痛いです。まだ骨折とか大ケガはありませんが、首や足をレース中に痛めて、首がほとんど曲げられない状態で次の日の大会に臨んだこともあります」
 船同士がクラッシュした場合、最悪の場合、命を落とすこともある。一瞬の判断ミスが、文字どおり命取りとなるのだ。見た目は華やかだが、実際は危険と隣り合わせの競技でもある。

 そんなジェットスキーの世界で、小原は若くして頭角を現してきた。2010年に16歳でJJSF全日本選手権にデビューし、大人たちを抑えて、いきなりチャンピオンに輝くと、米国アリゾナ州で開催された「IJSBA World Finals」ではアマチュアクラスとジュニアライツクラスで優勝。この10月も同地で行われた「World Finals」で「Ski Classic 2-Stroke」部門の頂点に立った。その活躍ぶりに海外でつけられたニックネームは「サムライ」。ジェットスキーが盛んな国では、空港で出迎えてくれる熱烈なファンがいるほどだ。

 恵まれない条件で磨きあげた技

 父・毅博が、同じ職場にいた母・雅美をジェットスキーに誘ったのが馴れ初めという2人の間に生まれた小原は、物心つく前からジェットスキーが身近な環境で育った。「ジェットスキーのエンジン音が子守唄代わりだったんですよ」と雅美が笑うように、レースに参加する両親に連れられ、大会会場にもよく出かけた。F1などのモータースポーツにも興味を抱き、レーシングカートは3歳から、モトクロスは4歳から取り組んだ。
「他にもATV(四輪バギー)をやっていました。高速の中で、いかにバランスをとって、コースを周り、相手を抜くか。その応用がすべて今のジェットスキーにつながっていると思います」
 まだ18歳だが、培ってきたレース経験は大人顔負けである。まさに小原は、“レースの申し子”なのだ。

 日本ではジェットスキーに乗るためには免許が必要となる。これは16歳になるまで取得できない。しかし、両親と一緒にジェットスキーに乗り、大会会場にも行っていた小原は「レースに出てみたい」との思いを強くするようになった。免許が不要な海外であれば、レース参加は可能だ。小学6年の時、米国での「World Finals」に初出場。そこでいきなりジュニアで11位に入ったことが、その後の運命を決める。

「もっと練習して、もっと大会に出れば世界で勝てるかもしれない」
 中学1年の冬にはオーストラリアに単身で渡り、練習やレースを重ねた。それだけでは満足せず、翌年には中学を転校し、ドバイ行きを決意する。シリーズ戦が開催されている中東の国で、さらなる経験を積むためだ。
「最初は全然、英語も話せず、言葉も通じない。不安はありましたけど、行ってみると本当に楽しかったんです」

 現地の日本人学校に通いつつ、放課後や休みになると、海岸に駆けだすジェットスキー三昧の生活。このドバイでの日々で小原は大きな武器を身につけた。それが高度な操縦テクニックだ。日本からやってきた実績のない少年に、最初から性能のいいジェットスキーは与えられない。
「スピードが出ない船で、どうやって相手を抜いて勝つか。それを考えながらやっていると、自然と効率のいい乗り方を覚えていたんです」
 
 恵まれない条件が、かえってレベルアップにつながった。ドバイで体得したテクニックをまざまざと見せつけた代表的なレースが、昨年12月にタイで開かれた「KING'S CUP」である。プロ・アマ混合で行われたランアバウトのレース。小原はエキスパートカテゴリーの世界王者であるデル・ロサリオ・ポール(フィリピン)に次いで好スタートを切り、2位でレースを進めた。そして10周回の3周目、S字カーブのところで一気に勝負をかけた。前を行くポールが、ややカーブで膨らんだ一瞬のスキを逃さず、ブイと艇のわずかな隙間を素早く突いて抜き去り、トップに躍り出る。そのままリードを広げ、トップでチェッカーフラッグを受けた。

 ジェットスキーの場合、前を行く船から噴射される水の抵抗を受けるため、後ろの艇は抜き返すスピードを容易には得られない。抵抗を避けるべく、前と進行が重ならないような位置取りも選択できるが、最短距離で進もうとする先行艇より大周りになってしまう可能性が高い。先にリードを許すと、前がミスをしない限り、そのまま逃げ切られてしまうケースが少なくないのだ。逆転劇を起こすには、テクニックで相手を凌駕することが重要になる。

 小原は世界王者に対し、見事なレース運びを見せた。現地の観客は大歓声をあげ、実況のアナウンサーは「サムライ」「サムライ」と興奮に満ちた声で連呼した。
「僕も映像で見て、ぶつからずにうまく抜けたことに驚きました」
 小原はそう前置きして、鮮やかな逆転を成功させた理由を明かした。
「何周も走っていると、前を行く選手がどんなコース取りをしてくるか分かります。その中でミスが出そうなところも見えてくる。そこを逃さなかったのが良かったですね。もし一瞬でも判断が遅れていれば、もう抜けなかったと思います」 

 トップ選手が有利になる構造

 小さい頃からのレース経験、そして磨き上げたテクニック。しかし、これからプロライダーとして世界の頂点に立つには大きな壁が立ちふさがる。まずはジェットスキーの性能の問題だ。先述したようにジェットスキーはスタートが勝負の大事な分かれ目となる。だが、スピードはエンジンや船の性能に左右される。製造するメーカー側にしてみれば、自社をアピールすべく、強い選手にいいマシンに乗ってもらいたいと考えるのは当然の成り行きだ。

「だから、世界の上位数名にはメーカーがとっかえひっかえ、新しい船やエンジンを持ってきてくれる。メンテナンスをするメカニックの人間も用意してくれますから、強い選手はますます有利になるシステムなんです」
 自身も選手としてレースに参戦してきた小原の父・毅博は、世界の実情を語る。現在、小原が乗っているランアバウトは60万円を出して購入したもの。昨年の「マルハンワールドチャレンジャーズ」で得た協賛金50万円を元手に中古で手に入れた。

 レースに勝つには船やエンジンだけを揃えるだけでは足りない。スポンソンと呼ばれる波の抵抗を変えるパーツや、エンジンにつける部品ひとつで走りの感覚は変わってくる。当然、自身に合ったものを買い進めると、かなりの資金が必要だ。ガソリンにしても、ジェットスキーは数100メートル走っただけで1リットルを消費する。トップ選手はレースに合った最高品質のものを用意できるが、同じことをしていてはお金がいくらあっても足りない。小原は練習の際には、普通のガソリンスタンドで買ったハイオクガソリンを準備し、かつ極力使い過ぎないよう、時間を限定して乗っている。

 それでもトップ選手として実力を認められるには、海外のレースに出て結果を出し、自らの地位を高めるしかない。好成績を残せば、レースの主催者側から招待を受けたり、「この船を使ってほしい」と現地で提供を受けることもある。若くして名を上げ、世界的に注目されつつある小原にも、そういった申し出は年々、増えてきた。しかし、まだ自腹を切って参加する大会も多い。遠征費を節約すべくジェットスキーは船で運び、メカニックは毅博が担当する。家族一丸と言えば聞こえはいいが、F1のレーシングチームのごとく、プロフェッショナルを揃えてレースに臨むトッププロには環境面ではかなわない。

 ワールドチャレンジャーズへの再挑戦

 小原は来春、高校を卒業し、大学に進学する。来年は今まで以上に海外でのレース参加を増やす予定だ。その中で2013年の目標は2つある。1つは「勝てる船に買い替えること」だ。
「最近は世界の上位に入るには、ランアバウトなら“このメーカーで、この人がつくった船でないとダメ”という風潮ができています。だから、まず、その船を手に入れなくてはいけない。今持っている船で勝って賞金を稼ぎ、高い値段で売って購入資金にしたいなと考えています」

 そして、もう1つは「マルハンワールドチャレンジャーズ」への再チャレンジである。小原は第1回のオーディションでは上位7名に選ばれず、当初は協賛金が得られなかった。その後、50万円の支援が決まったものの、海外レースが増えれば、その分、更なる資金が必要になる。

 刺激を受けたのは、8月の第2回のワールドチャレンジャーズのオーディションだ。14名の参加アスリートから最高となる300万円の協賛金を手にしたのは、同じ高校3年生の小橋勇利だった。「高校卒業後はヨーロッパに渡り、自転車ロードレースの最高峰ツール・ド・フランスでステージ優勝を果たす」。そんな大きな夢を会場で語りかけ、共感を生んだ。

 海外に出て、一番になるという思いは小原だって負けてはいない。世界中のプロの一番になり、より日本にジェットスキーを広める――これが18歳の描いている最終目標だ。現状、日本では競技としてのジェットスキーは認知度が低い。国内大会で優勝しても賞金はほとんど得られず、多くの選手は自己負担で参加している。小原自身もジェットスキー業界ではメジャーな存在だが、そのすごさは現在、通っている高校内ですら広くは知られていない。
「高校も僕の競技のことを理解してくれて、大会には他の部活動の選手と同じように公欠で参加できます。でも海外の試合で表彰台に上がっても話題になることはありません。それが正直、悔しいですね」

 メジャー競技と同じくらい、いや、それ以上のエネルギーを使い、国内のみならず世界で好成績を収めてもスポットライトを浴びない。マイナー競技の悲しい現実だ。ただ、この現状を変えられるのも自分自身だと小原は信じている。
「ジェットスキーが僕にとっては“人生のすべて”と言っていい存在です。ジェットスキーをやっていると、本当に楽しい。だから僕が世界のトップに立つことでジェットスキーのイメージも変えたいし、もっと多くの人に体験してほしい」
 日本の若きサムライは、いつか世界のトップで水を斬り、栄光の虹を水面に描いてみせる。

(次回から第2回マルハンワールドチャレンジャーズの最終オーディションに参加した選手を紹介します。最初に登場するのは自転車・小橋勇利選手です。二宮清純のインタビューを掲載します)


小原聡将(おはら・としゆき)
1994年4月22日、千葉県生まれ。千葉・稲毛高校3年。幼い頃からジェットスキー、レーシングカート、モトクロスなどに親しみ、小学6年で初参加した「IJSBA World Finals」で、ジュニアクラス11位に入る。中学1年でオーストラリア、中学2年時には転校してドバイへ渡り、数多くのレースに参加。日本で免許を取得した10年にはJJSF全日本選手権に初参戦し、チャンピオンに輝く(翌11年も制覇)。同年に米国で行われた「World Finals」では、2種目で念願の世界一に輝く。この10月の「World Finals」でも「Ski Classic 2-Stroke」部門で優勝。自身3度目のワールドチャンピオンとなる。昨年の「マルハンワールドチャレンジャーズ」では協賛金50万円を獲得した。162センチ、48キロ。
>>公式サイト





『第2回マルハンワールドチャレンジャーズ』公開オーディションを経て、7名のWorld Challengers決定!
>>オーディション(8月28日、ウェスティンホテル東京)のレポートはこちら


※このコーナーは、2011年10月に開催された、世界レベルの実力を持ちながら資金難のために競技の継続が難しいマイナースポーツのアスリートを支援する企画『マルハンワールドチャレンジャーズ』の最終オーディションに出場した選手のその後の活躍を紹介するものです。

(石田洋之)
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